生活者主権の会生活者通信2006年08月号/06頁

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靖国神社について

東京都文京区 岡戸 知裕

第一部 太平洋戦争の実態
今の靖国神社論争というのは、日本の近代史に於ける太平洋戦争の歴史認識が定まっていない事と靖
国に対する誤った認識に起因していると思います。靖国神社に祀られている先の大戦の英霊213万
柱は、他の戦役例えば日露戦争の9万柱から比較しても桁違いに大きい存在で、この最大の戦争の清
算を終えていないことが国論を二分する靖国神社論争になっていると思います。
次に日本国内の犠牲者の数倍に及ぶ1500万人と言われているこの戦争の舞台であったアジアにお
ける戦争犠牲者とその遺族の感情にどう対処するかということも決してないがしろにはできないこと
です。例えばフィリピンでは100万人以上の戦争犠牲者を出していますが日本のメディアには全く
出てきません。ベトナムでは米の徴発で100万人以上の餓死者が出たようですが、これも全く報道
されずにきています。こういったアジアでの犠牲者を日本が歴史の中でどのように捉えてゆくか真剣
に考える必要があります。
中国では日本人も虐殺されていますが、その逆の数のほうが圧倒的に多いと思います。
おそらく100万という数字ではすまないと思います。例えば大戦末期に中国で行われた三光作戦
“奪いつくせ、焼き尽くせ、殺しつくせ”は正にナチそのものですが、事実は事実として正視する以
外にありません。731部隊も戦後人体実験のデータ(3千から1万人の犠牲者)をGHQに渡すの
と引き換えに、免責されていますが、彼らの実態もあまり語られていません。

■国内における敗戦責任について
東条英機自身も認めているように開戦を決定したときの内閣総理大臣たる東条に責任があるのは当然
のことです。また対米戦争を目論んだ帝国陸軍参謀本部にも大きな責任があります。
今の日本では戦争責任論になると日本人全体が悪かったという所謂極東裁判史観と米国の陰謀だとす
る陰謀史観など、全く戦争の実態にふれない議論が横行しています。これでは中国韓国と歴史問題で
どう対峙するかという方法さえも見えてきません。

■太平洋戦争の戦略的な誤り
昭和16年に大東亜戦争と命名されましたが(海軍からは太平洋戦争という提案があったが最終的に陸
軍の提案通り大東亜戦争と決定された)、常識的に且つ戦略的に見ると実は大東亜といった途端にこ
の戦争の負けが決まるという奇妙な現実があります。なぜなら北はロシアと戦い西は中国、南は英国、
フランス、オランダの植民地軍との戦いとなり、フィリピン侵攻は米国との戦いになるわけですから、
これは世界を相手とする戦いになり、こんなに戦略的に無謀な戦いは世界の戦史の中でも稀有の存在
です。要するに戦争の最初から最後まで戦略というものが存在しなかった戦争と言えます。

■大東亜共栄圏は単なる机上の空論
まず輸送ルートの問題として、どう考えても広大な海域のシーレーン防衛は絶望的なことと大東亜共
栄圏は欧米列強をアジアから締め出そうという構想ですから、結果は火を見るより明きらかです。植
民地の奪い合いのための戦争ですから、英米仏蘭相手の戦争になります。
スターリンでさえ二正面作戦は回避しています。日露戦争も対一国戦です。
昭和19年に大東亜会議を開催していますが、これも殆ど茶番劇にしか過ぎません。
インドネシア独立の闘志スカルノから現地日本軍による現地人への暴行や傲慢な態度を改善してほし
いと東条首相に申し入れがあったくらいで、アジアの開放という建前と現地における丸出しの本音と
はかなりの乖離があったようです。但し戦争が終了してインドネシア独立のために戦ったのは国家の
意思に束縛されない個人の自由意志での参加ですから、そこからが本当のアジアの開放戦争ではない
でしょうか、しかしながらそれをもって先の大戦を正当化することは無論できません。

■無謀な戦いをさせたのはアメリカのせいだという主張がありますが、良くハルノートが最後通牒だ
と言われていますが、まずこのハルノートはTentative
となっています(Strictly confidential,tentative and without commitment)。つまり試案という
ことですから、交渉の余地が残されています。このTentativeの部分を意図的に翻訳しなかったのが
東郷外相と東条首相だと言われています。次にハルノートの条件にある中国からの撤兵ですが、その
Chinaという意味が満州を含むものかどうか確認する必要があったはずです。つまり交渉の余地は充分
にあったといえます。
また昭和15年に帝国陸軍は独自に中国からの撤兵を決定していますので、米国から言われるまでも
無かったと思います。また撤兵といっても当然期限が交渉の条件になってくるわけです。
歴史にIfはつきものですが、もし開戦が数ケ月遅れれていれば、スターリングラード攻防戦でドイツ
の敗北が決まったのが12月ごろですから真珠湾攻撃は回避できたかも知れません。
帝国陸軍参謀本部はドイツは対英戦と対ソ戦に勝利するということを鵜呑みにして対米戦争を準備し
ていたので、間違いなく出鼻をくじかれたろうと思います。チャーチルは独ソ戦開始の報を聞いて勝
利を確信したそうで、やはり歴史観と政治、軍事の戦略に長けていることが、戦争指導者の最低条件
でしょう。

■米国の石油禁輸が日本を自衛の為の戦争に駆り立てたと言われていますが、
南部仏印進駐が米国の石油禁輸を招いた直接の原因です。それ以前の北部仏印進駐の際に日米友好通
商条約が破棄され、航空機用ガソリン及びくず鉄の輸出禁止などがあり外交上の警鐘となりました。
南部仏印進駐の際に永野軍令部総長が天皇から今後米国などとの戦争に発展する危険性はないかとの
ご下問がありましたが、何らそのような危惧はないと回答しています。無知というのは実に恐ろしい
ものだと思います。

■ABCD包囲網があったからか?
そういった国際条約が存在したわけではなく、日本の仏印進駐に対して日本への輸出制限を行うとい
う措置で違反した場合の罰則などはなく、内容も各国の判断に委ねられていましたが日本側は過度に
受け止めていたようです。

■三国軍事同盟が太平洋戦争の真因
三国軍事同盟により日本がドイツという欧州の問題児(ライラント進駐に始まる数々のヴェルサイユ
条約違反とユダヤ人排斥運動)と共同歩調をとり英米仏蘭と対立するという構図を築いてしまった外
交上の大失態があったわけで、これは松岡外務大臣の責任と共にそれを支持した帝国陸軍参謀本部及
び近衛首相にも大きな責任があります。この同盟によるドイツ側のメリットは、米国による対独参戦
を牽制することにありました。
昭和天皇は世界が英米を中心に回っているときになぜ英米と対立する道を選ぶのかという素朴な疑問
をお持ちであったようで、これは当時も至極常識的で且つ現代でも通用する真理です。

■仏印進駐は、ドイツからの強い要請があった
ドイツが英国との戦争に勝利するためどうしても英国のシンガポール要塞を日本に攻撃させ英国を二
正面作戦に陥れようという戦略に日本が利用されたことにあります。
つまりドイツの要請をうけた為に、米国から戦略的に重要な物資つまり石油の禁輸を受けるわけで、
非常に稚拙なそして近視眼的な行動という他ありません。
それと戦略的に重要な物資を輸入している相手国となぜ戦争するのかという極く単純な疑問もあるわ
けです。帝国陸軍は普仏戦争に勝ったドイツをモデルとして日露戦争に勝利し、帝国海軍はイギリス
をモデルとしてきました。つまりドイツの影響がこの太平洋戦争の真因であるともいえます。
時系列的にみてゆくと外交上の数々の誤りの集大成が太平洋戦争であるといえます。


第二部 靖国神社の問題点
靖国参拝について多くの国民は戦争の犠牲者を悼む気持ちを表現する施設として認識していますが、
靖国神社の実態は、戦死者を追悼する施設として存在するのではなく顕彰する為の施設であり、顕彰
するという過程で過去の戦争は正義の戦争、国を守るための戦いとして、解釈されてゆきます。果た
して過去の戦争が正義であり、国を守る為の戦争であったのか大きな疑問が残ります。
まずは言葉の定義から始めたいと思います。
英霊とは:死者の霊の尊称。現在多くは戦死者の例を指す。
顕彰とは:(隠れている良いことを)明らかに表すこと、明らかに現れること。功績などを一般にし
     らせ、表彰すること。
追悼とは:死者の生前を偲び、その死を悲しむこと。
過去の日清戦争から始まる日本の対外戦争は、日本の防衛のための戦争ではなく帝国主義時代におけ
る植民地獲得のための侵略戦争であったわけで、その先兵として多くの国民が戦死したというのが歴
史の実態です。
最初の対外戦争である日清戦争はフランスがベトナムを植民地化した事実を見て、日本は朝鮮を植民
地化することを目論みました(国辞辞典より)。つまり当時の欧米列強の常識に従った行動ですが、
イギリスのインド支配、フランスのベトナム支配、オランダのインドネシア支配、アメリカのフィリ
ピン支配これらはすべて侵略という言葉で表現できます。
そういった侵略戦争を遂行する上で、国家の意思によって英霊として顕彰される施設つまり死ねば英
雄になれるという、戦争プロパガンダの一環としての役割が国家により靖国に与えられていたと解釈
することができます。そして現代も全くその教義は変わっていません。
帝国主義の時代華やかれし頃にはこの教義が機能していましたが、現代にあっては全くの時代錯誤で
あるといえます。その時代錯誤の施設に日本国民の象徴である天皇や首相が参拝するということに大
きな問題があります。
このシーラカンス的歴史施設は、日本の帝国主義の研究には欠くべからざる施設ですが、この過去を
肯定する施設がアジアの遺族に対しどの様な影響が及ぶかということを現代の日本人は深く考えなけ
ればなりません。

■靖国で会おうは本音か?
これこそ戦争プロパガンダで、国民を戦争に駆り出すためのキャンペーンにしか過ぎません。
戦争に駆り出された多くの市民が213万柱の大部分を占めていると思いますが、プロの職業軍人な
らいざ知らず一般民間人にとっては赤紙一枚で命を国家に差し出し、靖国に祀られて名誉に思えと言
われてもどだい無理な話だと思います。

■国のために死んだものを追悼してどこが悪い?
過去の侵略戦争に参加して戦死したことを英雄的な行為として捉えることには無理がありむしろ戦争
犠牲者として祀られることが自然な姿だと思います。
つまり靖国の教義に問題があり、現代社会に受け入れられるような教義であるべきです。

■軍人軍属のみを対象とした神社
帝国陸海軍が運営する、軍人軍属の戦死者のみを対象とする神社で、東京大空襲の犠牲者や広島、長
崎の原爆犠牲者が合祀されていないこともこの問題を考える上で重要です。

■合祀を拒むことができない?
天皇の名のもとで出征し、戦死した兵士は遺族の意思に関らず、合祀取り消しはできないという、一
方的な判断が靖国により下されていることも問題。
台湾、朝鮮出身者も合祀されており、戦後合祀取り消し裁判がありました、またキリスト教信者によ
る合祀取り消し運動もありましたが、受け入れられていないということも現代にあっては問題だと思
います。

■靖国神社は国を守るという言葉を使っていますが、どこまでが国を守る行為なのか?
日本の安全保障という観点からすると、ロシアの南下政策に対する歯止めとしての朝鮮の併合は国際
的に容認されていました。また満州の属国化は多くの国際的な非難を浴び、国際連盟脱退の主因とな
りましたが宿敵ロシアに対する安全保障という観点から満州国の成立は国際的に容認されるギリギリ
の線であったといえます。よってドイツと日本に対するルーズベルトの隔離政策の発表は1937年
盧溝橋事件以降になっています。
日本の国防ということを考えると朝鮮、満州の獲得までが国際的に容認される限度であったと言えま
す。
また戦争終結にあたり昭和19年7月の絶対国防圏と言われたサイパン陥落が事実上の太平洋戦の終
結を意味しています、それ以後のフィリピン戦、沖縄戦、都市爆撃、原爆投下など実に無益であった
といえます。実に愚かなりとしか言いようがありません。

■首相の靖国参拝
一市民が追悼のために靖国へ参拝するということは、たとえ東条が合祀されていようが信教の自由と
いう観点から問題ない行為ですが、一国の首相が公式参拝するとなると憲法上の問題と、かつ過去の
侵略戦争を正当化することに繋がり問題となります。

■最後に戦争という現実について:
沖縄特攻に出た海軍機1637機、陸軍機934機。
多くが目標の艦艇などに命中したわけではなく、目標に達する前に撃墜されて、むなしく海の藻くず
と消えてゆきました。この特攻の実態は何なのか以下の生の声を最後に添えたいと思います。
ある母親の本音
戦死した343海軍航空隊今井進上飛曹の母親今井ひろさん(千葉県木更津市)の言葉
“もう大きくしただけのもんだよ。総領じゃあったし、言うことだけは聞いてやったんだけどな。も
っと、どんな思いをしても帰ってくるつうね、度胸があれば良かったが、お国の為に死ぬんだ、死ぬ
んだっていう。最後は死ぬつうことばかり思よっていたようにみえましたけどねぇ。
それこそ戦争に負けたんも神武以来だもんね。国始まって以来だもん。戦争ばぁかり十年にいっぺん
してたから、年中貧乏して。明治の人間でラクしてきた人なんかありゃしない。苦労したよ。無駄苦
労だよ。“
343海軍航空隊に海軍上層部から特攻の打診を受け、志賀飛行長は毅然とした態度で以下の通り返
答。
“そろそろ来るころだと思っていましたが、源田司令こうしてください。まず海軍兵学校出のベテラ
ンを先にやる。最初の特攻隊は、私が指揮官で行きます。
そして特攻、特攻という参謀を私の後ろに乗せて、特攻というのが実際にどういうものか、お見せし
ますから、乗るようにいってください。予備士官や下士官を先にやるような安易な気持ちでしたら、
私は反対です。“
この志賀飛行長の話を上層部に伝えたところ、以後特攻の話は一切こなかったそうです。

現代に生きる我々はこうした尊い犠牲の上に成り立っているということを心しなければなりません。
太平洋戦争の清算を終えていない現代の日本人は再び同じ過ちを繰り返しています。
現代もそして過去の歴史においても大いなる欺瞞を見破る見識を持つ必要があります

生活者主権の会生活者通信2006年08月号/06頁