生活者主権の会生活者通信2006年08月号/02頁

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順法は十分条件ではない

東京都渋谷区 岡部 俊雄

 福井日銀総裁が村上ファンドで利殖行為をしていた。小泉首相や多くの政府関係者は法に
触れていないので何等問題ないと言っていたが、果たしてそうなのだろうか。
 
 そもそも法とは何なのだろうか。
 この人類の社会がたった二人の社会であれば法などというものは必要ない。三人になれば
初めて組織が形成され、何らかの取り決めが必要になる。それも、三人がそれぞれ他の二人
のことを十分に配慮する人達であれば取り決めも極少ないものですむだろう。しかし、三人
が他の二人のことを全く配慮することなく勝手気ままに動くとなれば、取り決めは数多く、
しかも細かいものになるだろう。
 法とはそういうものである。いろいろな立場の、いろいろな方向を向いた多くの人々に対
して、最低これだけは守れというものである。
 人々のレベルやベクトルが揃っていれば法は少なくてすむし、逆に広範なレベルやベクト
ルの人々がいれば多くの細かい法が必要になる。
 生徒のレベルが揃っている学校では少ない校則で十分であるが、雑多なレベルの生徒が混
在している学校で一定レベルの規律を守ろうとすると、細かい多くの校則が必要になるのと
同じである。

 我が国には膨大な数の法があるが、これらは全て日本国民としてこれだけは守れというナ
ショナルミニマムの規定である。
 ではこの法さえ守っていれば、人として、社会人として十分なのであろうか。否、法を守
るということは、人として、社会人として必要条件であるけれども決して十分条件ではない
のである。
 我々の、人として、社会人としての生活は法以上に多くの節度、礼儀、マナーなどの倫理
観によって成り立っている。もしその倫理観が堕落することになれば法の数は更に天井知ら
ずの膨大なものになるだろう。
 法とは、出自、職業、貧富等に関係なく全ての国民が社会生活を送るにあたってこれだけ
は守れ、という最低限のものであり、それ以上のことは、節度、礼儀、マナーなどの倫理観
に従え、ということである。
 特に一国をリードする地位にあるエリートは倫理観の最高峰にあるべきである。日銀総裁
などはそのエリート中のエリートである。その行為が、法に触れないから全て許されるなど
とは倫理観の低下、堕落も甚だしい。そんなことを言う小泉首相や政府関係者の倫理観もひ
どいものである。
 そういう人達がこの国をリードしているのである。恐ろしいことである。
 ホリエモンも、村上氏もエリートではなく、単なる利殖家なので法に触れないギリギリの
ところを狙うのは特別問題ではない。ただ、狙いすぎたあまり、法に触れてしまったという
訳で、法に基づき罰せられるというだけのことである。
 しかし、高い倫理観で執務すべきエリートが、低い倫理観で、ギリギリ法に触れない行為
をして、果たして許されるのだろうか。日銀総裁が、法に触れないようにギリギリの行為を
しているアンチャンと同じでよいのだろうか。
 小泉首相の、法に触れないから何の問題もないと言い張っている顔つきを見ていると何か
パラノイアの人を連想してしまう。国民を馬鹿にするのもいい加減にしてもらいたい。
 高い倫理観を持つべき立場の人に、それにふさわしい倫理観がなかったことを心から恥じ、
日本国民の低下しつつある倫理観をこれ以上低下させないという意味においても、日銀総裁
には早期に潔く退任してもらいたかった。
 法とは全国民に求められている必要条件であって、十分条件ではないということを肝に銘
じてほしい。 

生活者主権の会生活者通信2006年08月号/02頁