生活者主権の会生活者通信2006年02月号/08頁

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<中国の現実I>
大国に隣接する小国の智恵

東京都練馬区 板橋 光紀

 私が初めてシンガポールへ出張し、共通の知人を介してリー クアンユー首相の父親、
リー チンクーンさんに出会ったのは1965年、東京オリンピックの翌年であった。
リーさんは当時62才、先祖は福建の客家だと言う。「宝石店の店員だよ」と自嘲気味
に自己紹介してくれたのが印象的だった。親子ほど年の違う私は駆け出しの商社員で
25才。それ以来シンガポールへ行く度にお訪ねして、私はリーさんによくしていただ
いた。

 当時の日本には外貨の使用に厳しい制限があり、時々商用のビジネスマンを見かける
ことはあったが、今のように大勢の観光客がアジア各国へ遊びに行ける状況にはなかっ
たから、若い日本人が珍しかったのだろう。東南アジアを駆け回っていた私が辰年であ
ったことから「FLYING DRAGON」の渾名を付けてくれたのは彼である。私事だが、後
に脱サラして貿易商を設立、その社名に「飛龍」の字を冠した経緯はここにある。

 顔を合わす度に出てくるリーさんの話はいつも決まって息子「リー クアンユー首相
批判」で、強引過ぎる首相の政治手法にあった。リー クアンユーは1959年、弱冠
35才でシンガポールの首相に選ばれた。大統領を国家元首とする議会制民主主義国家
であるにも拘らず、大統領を単なる名誉職に祭り上げて実権を首相に集め、駐留イギリ
ス軍を追い出し、若手官僚を抜擢、秘密警察を多用して共産党とイスラム過激派を非合
法化等々、かなりの荒技を駆使して短期間に改革を断行して来た。同時に多くの反対勢
力による抵抗もあったが、強権を行使してその都度撃退。極めて清廉な私生活と抜群の
指導力で安定感のある経済、福祉、教育の急速な高度成長を達成している。

 不満分子は度々父親のリー チンクーンを訪ねて首相への説得を懇願、人の好いリー
さんは彼等に同情して直ちに官邸へ押しかけ、首相の翻意を強要するが、リー クアン
ユーは聞く耳を持たない。周りに人が居れば尚更のこと、大声で頭ごなしに父親を怒鳴
りつけ、警備員に命じて外へ追い出してしまう。その夜家に帰ると立場は逆転し、家長
である父親はシンガポール首相を床に正座させ、昼間の官邸での無礼を深く詫びさせて
仕切りなおし。続いてリー クアンユーは真心を込めて父親に説明するが、いつも説明
の中に盛り込まれていた同じ事柄が三つあり、繰り返し強調することを忘れなかった。
それは、

(1)  シンガポールの人口は300万人、首相と言ったって日本で言えば名古屋市長
位の軽さでしかない。自給自足出来る資源は豚と鶏とあひるだけ。特定の外国に大きく
依存することなく、自立した豊かな社会を目指すには世界中の多くの国々に好かれる国
造りをしないとこの小さなシンガポールに将来はない。

(2)  至近距離にインドネシアがある。人口2億を越す魅力ある市場ではあるが、同
時に多くの危険要素を抱えた大トラブルメーカーでもあるから、インドネシアに多くを
依存する体質にならない国の舵取りが必要である。

(3)  成長を急がねばならない。欧米式民主主義で改革しようとすれば時間がかかり
過ぎる。シンガポール式民主主義があって、それが欧米式と違ったものであってもおか
しくはない。

であると言う。リー親子の議論はかみ合ったためしがなく、いつも決裂のままであった
ようだ。しかしリーさんが私にありったけの愚痴の数々を吐き出した後に、「でも大し
た息子だよあいつは、憎ったらしいけどね」と息子自慢で締めくくるのが常だった。

 「東洋の首飾り」の別名通り、インドネシアは17000を越す島々が東西6000
kmに細長く延びた多民族で多部族国家である。地形上の制約から島毎に部族が分かれ、
400を越す言語と多様な文化は常に国論を集約することを妨げる。なまじっか石油や
木材等資源が豊富なことから、外国の干渉を受けやすく、政治的、経済的、宗教的な不
安定要素を恒常的に抱えている。

 15年ほど前、韓国は中国との国交が無かった為に、多くの企業が進出先にインドネ
シアを選択していた。ジャカルタの繁華街にチマチョゴリが行き交い、キムチの香りの
漂う、韓国人ビジネスマンが大手を振って歩いていた時代があった。慢性的に続く悪性
のインフレ、電力不足と通信を始めとするインフラ整備の後進性に業を煮やしていた韓
国人は、中国との国交が成るや殆どの企業がインドネシアの工場を畳んで中国へ移って
しまった。しかし日本企業は業績が緩やかに下降線を辿ってはいても、韓国企業ほど急
激に撤退することはせず、今尚インドネシアの対外輸出入、投資、援助のいずれにおい
てもトップクラスの座を維持している。それには理由がある。

 1974年1月15日、田中角栄首相がジャカルタを訪問したのを契機に「反日デモ」
が発生、激しい反政府暴動に発展した、所謂「1月15日事件」である。学生を先頭に、
農民と低所得層の労働者がデモ隊の中核を成していた。日本大使館を始め、日系企業の
建物や広告看板、それに日本人の商売にはたいてい福建省出身の華僑が絡んでいたこと
から、町を歩く日本人と中国人が投石の標的となった。たまたまジャカルタに滞在して
いた私を含め、数十人の日本人が三日間ホテルに缶詰めになって、居合わせた日本人の
間で「反日」の理由について長時間議論が交わされた。

 デモ隊が掲げる抗議の口上は「日本の経済進出がインドネシアをダメにする」と訴え
ていたものだ。日本人が「モノ」と「カネ」の尺度で計る西洋文明をインドネシアへ押
し付けることにより、「民生全体の向上に資することなく、様々な矛盾を拡大させる結
果をもたらした」にあるとの結論に至った。デモ隊のかざすプラカードの一つに「農業
機械の輸出を止めろ」があり、解り易い。

 インドネシアでは総人口2億人の83%が農村に住んでいる。昔から農作業はスキと
クワによる原始的な手作業が多い。そこへ日本製の耕耘機や田植え機が入って来ると、
村々や家々に格差が生じて、地域の生態系が狂ってしまい、伝統的な好ましい人間関係
が崩壊して来たのだ。インドネシアの農村には昔から「アトラン・シノマン」と呼ばれ
る祭祀を中心とする地域の運営方法が営まれて来た。日本の田舎にも見られる「ゴトン
・ロヨン」と呼ばれる隣組の相互扶助、「アダット」と呼ばれる基本的な人間関係を律
する約束事、それに「グーグル・グヌン」と呼ばれ、村人全員による自発的な共同労役
が、文書によらず口承によって受け継がれている。だからそこには「貧しくとも笑いが
あった」。しかし富む家が益々富み、貧しい家が益々貧しくなると、人々の間に不必要
な妬みや競争意識が生じて、人間関係がささくれだって来たのだ。

 「1月15日事件」以来、日本の政・官・業はインドネシアに対するスタンスを若干
修正、開発や投資にブレーキがかかる。自然に逆らわず、素朴な原始的農業と観光産業
で国が支えられている方が無難で、外国がこの国の工業化を手助けしたり、先進国の真
似事をそそのかしたりする事は余計なお世話、と言うより、穏やかな村に喧騒を持ち込
む行為は「罪深い」とさえ言える。原木の輸出を制限し、ベニア板や玄関ドアに加工す
る等、付加価値を付けて輸出させる程度の改善ならば構わないだろうが、インドネシア
が国際競争に参入し、シンガポールやマレーシアの工業化に歩調を合わせることを「経
済発展」と称するならば、そこには環境破壊が伴い、長年培って来た伝統的文化さえを
も喪失しかねない。進出して来た外国人は歓迎されるどころか、時間が経てば人々に恨
まれる可能性の方が高い。インドネシアが自立し、自主的に方向を決めて行動する限り
外国人は口をはさむ立場にない。「間尺に合わない」と計算すれば一般の外国企業はた
めらいもなくインドネシアから撤退すると思われる。

 しかし問題は日本の「ODA」だ。スカルノ大統領の時代に始まった日本の外務省主
導による「戦時賠償」のやり方にそもそも諸悪の根源があった。ささやかながらフイリ
ッピンの戦時賠償に拘った私自身が断言することだから間違いはない。昔から政権中枢
と日本の落札業者の間で黒い噂が絶えなかった。戦時賠償はたいてい空港や道路等の土
建に代表される「インフラ整備」で支払うから、インドネシアに限らずアジアの国々で
は00組とかXX工務店等の大手ゼネコンの社員が貿易商社の頭越しに暗躍していた。
1965年左寄りのスカルノが引きずり降ろされ、親米のスハルト大統領の時代になっ
た。戦時賠償を完済して仕事が無くなり、彼等は帰国するものだとばかり思っていたら、
ゼネコンはジャカルタにいつまでも居残っている。不思議に思って駐在員達に聞いて見
たら、この先は「政府開発援助(ODA)」に名前が変わって、仕事は色々続けられ、
「手順や要領は戦時賠償のスタイルと殆ど同じさ」との答えが返って来た。

 途上国に出すODAの総額は長い間日本が世界一の高額援助国の座にあった。最近ア
メリカに一位の座を譲ったらしいが、国家財政の破綻している現時点でも世界第二位に
ある。私は日本政府が「仏心に厚く」犠牲的精神で途上国を援助しているとは思わない。
戦時賠償もODAも一般の「公共事業」と同様、大手ゼネコンにとっては美味しい商売
で、それらを当てにする企業体質になり切ってしまっているところが多い。「仕事を切
らせたくない一念」で政官に働きかけ、多くの外務省OBの天下りを受け入れて有利な
ポジションを確保、今日迄、そしてこれからも海外土建を続けていくものと見ている。
高速道路と整備新幹線の事業が絶対に中止にならないのに似ている。

 1990年、スハルトも大統領の座を追われた。数百億円と言われる彼の蓄財の大半
は日本のODA事業の落札者から受け取ったリベートであると言われている。この辺り
でインドネシアへの援助は環境保護と保健衛生や留学生受入れ等の教育面に絞るべきで、
ゼネコンの社員がジャカルタで大活躍している間は反日の流れは止むまい。

 他方、宗教に絡むトラブルも絶えない。インドネシアは5世紀頃から「ヒンドゥー 
インドネシア」又は「インド化国家」と言われていた時代がある。13世紀にイスラム
教が入って来て、イスラム化は現在も進行中。この「進行中」の時期が流動的で、とか
くトラブルが発生し易い。大航海時代にポルトガルと、17世紀には「武装した貿易商
人」の異名を持つ「オランダ東インド会社」がキリスト教を持ち込んで来たことから、
外来の3宗教と土着の各種原始宗教との四つ巴で争われる構図があり、前途多難である。

 インドネシアの諸問題を心配しているのはシンガポールだけでなく、もう一つの隣国
で、人口僅か2千万人のマレーシアも同様である。昔から海賊の巣みたいな呼ばれ方を
していたマラッカの町に古い友人が居り、4年ほど前だが、インドネシアのスマトラ島
を肉眼で見られる海岸で語り合ったことがある。その友人によると、マレーシアのマハ
ティール首相のインドネシアに関する懸念もその不安定要素にあったようだ。

 巨大な国に対しては、たとえ相手がアメリカであろうとも、常に毅然とした態度を崩
さない。インドネシアが至近の隣国にあっても、距離を置いて友好関係を維持しつつ、
しかし運命共同体には絶対になるまいとする本能的な智恵が働く。同じ位の人口の国同
士なら、問題が発生しても「足して2で割る」、「話せば解る」や「放っておけば時が
解決してくれる」とか「少々我慢すれば済む」ことが多い。しかし入れ込んだ相手が巨
大で、それが苦痛でのたうちまわったら最後、パートナーの小国がいかに誠意を尽くし
ても、国を挙げて努力を傾注し、多大な犠牲を払おうと無力に終るだけでなく、問題の
渦中へ道連れにされ、手の施しようがない。国の存続すらを脅かしかねない。国政を預
かる責任者としては大バクチを打つ訳にはいかない。

 今の日本、中国、韓国のサイズと位置関係はシンガポール、マレーシア、インドネシ
アのそれに似ている。中国もインドネシアも国が大き過ぎて、多民族過ぎで、多様過ぎ。
強大な武力を背景に各地の不満分子を抑えつけようとしても限界がある。国をいくつか
に分割しないことには、民主主義や政治家のリーダーシップによる制御は不可能。巨大
な国が無理を続けている間中周辺の中・小国へ悪弊を撒き散らし続けることになる。

 昔の「LOOK EAST」はシンガポールやマレーシアが「日本や韓国を見習おう」
であったが、今の「LOOK EAST」は日本と韓国が国を空洞化させるほど中国へ
入れ込んで、大きな賭けに出ている様を「固唾をのんで観察しよう」の意味だ。マレー
シア人から見ると、日本人と韓国人は「勇気がある」のか、「自信過剰」なのか、「馬
鹿」なのか、よく解らない。とのことだった。私の中国警戒論はこの時から始まってい
る。
                                      【完】

生活者主権の会生活者通信2006年02月号/08頁