生活者主権の会生活者通信2005年08月号/05頁..........作成:2005年月日/杉原健児

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<中国の現実E>
中国のナショナリズムと靖国問題

東京都練馬区 板橋光紀

 「ナショナリズム」を辞書でひくと、「愛国心」
と「排他的国民感情」の二つが出ている。「愛国心」
は平和で国民が幸せになる方向を目指す筈だから、
忍耐強く、戦争を避ける考え方になる。「排他的国
民感情」はその反対で、身内だけを大事にして、よ
そ者を排する「鎖国型」か「攘夷型」、頑固な人種
にあり勝ちで、紛争を引き起こし易い。     
 2004年に汚職で摘発された中国共産党幹部は
3万人を越すと言われる。官僚の腐敗と都市・農村
の格差拡大で下層階級の不満は臨界点に達している
から、中国では「愛国心」が育ちにくい。不満の捌
け口はとかく「排他的」の方へ振れてしまい、ナシ
ョナリズムの形体は「反日」か「反台湾」、「反米」
だって何時起こるか判らない。それらを政府や党が
容認又は奨励でもしようものなら、発散しようとす
るヱネルギーは加速度をつけて増幅する。前回の反
日デモでは当局がデモを容認したばかりに、計算を
大きく上回る規模に拡大してしまい、指導者達はそ
れを後悔して、今国民の不満を詰めた圧力釜の蓋を
懸命に手で抑えつけている心境であろう。    
 小泉さんは「靖国問題」を軽く見すぎて、日本の
「権益」まで脅かすことに未だに気ずいていないら
しい。日中双方の指導者共々自分で墓穴を掘った、
サッカーの試合で言う「オウンゴール」みたいなも
のなのを。                  
 報道で見る限り、日本政府からの中国に対する謝
罪はいずれも「痛切な反省と心からのお詫び」が込
められており、とりわけ細川護煕、村山富市、小渕
恵三の首相談話は謝罪文言としては立派で、十分意
を尽くしたものであったと記憶している。これまで
になされた日本政府の謝罪は17回を数えると言う。
17回は多過ぎると思うが、21回だと言う説もあ
る。何回しても謝罪が「帳消し」にされ、再度謝罪
をせねばならなくなり、それらを何回も繰り返して
いるのが実状だ。謝罪と言うのはきちんと礼を尽く
したものであれば1回で済む筈のものだが、相手の
要求に素直に従って何回も謝罪を繰り返していると
ころを見ると、「口先だけの謝罪であった」り、そ
の後に「謝罪を撤回するがごとき非礼な言動を浴び
せた」ことを自ら認めていることになる。    
 日本の謝罪が「口先だけのもの」に映る理由は小
泉さんの行動に象徴される「靖国神社参拝宣言」と、
それに関連した各種の答弁やコメントに「はぐらか
し」めいたものや、幼児性を帯びた頑なさ、生まれ
てこの方行った事もない靖国神社へ、首相の座に着
いた途端に行き始めると言った、「軽薄な思いつき」
に見えるような彼の言質等に、「参拝」を内外にな
んとか理解してもらおうとする説得力に欠けるばか
りでなく、真摯な心根が感ぜられない事にあると思
われる。こういった小泉さんの「悪い癖」は国会で
も、野党の鋭い質問に対する答弁が人を馬鹿にした
ような不誠実なものであったり、重大なテーマにお
いて国民に十分な説明がなされなかったり、与党内
にあってすら抵抗勢力を恫喝してでも屈服させるが
ごとき独善的な政治手法に度々現れているから、中
国人が不完全燃焼によって異臭を発したくなる心境
は理解出来る。                
 北朝鮮の拉致問題に置き換えて見ると解り易い。
日本に住み着いた在日朝鮮人のコミュニティーで、
大きなイベントをする度に、拉致問題では「正真正
銘のA級戦犯」と断定出来る金日成と金正日の写真
を伏し拝み、全員で万歳三唱をする光景を見れば、
我々日本人は心を騒がせずには居られない。   
 韓国人に言わせると、日本人の歴史認識の中で特
に不愉快になるものの最たるものは「日本が韓国を
併合することにイギリス、アメリカ、ロシアの3国
は異議を唱えなかった」であると言う。よく考えて
見ればこれほど朝鮮人を馬鹿にした話はない。日本
は即刻これを改める必要がある。ひょっとすると我
々日本人は無意識のうちに他にも多くの非常識や不
見識、非礼やバランスを欠いた言動を吐いているの
ではないだろうか。情報の伝達手段が飛躍的に発達
した世の中である。私を含めた、一人よがりの人や
心ない人、国粋主義者や不遜な輩ですら発言出来る
世の中でもある。メディアの報道が偏向的な場合も
あれば、恣意的に歪めて表現することも可能だ。政
治家や外交官と言えどもバランスよく見識を具えて
いる人ばかりとは限らない。          
 日本で生活に追われていると、圧倒的な多数を占
める日本人的な思考に埋没して、バランスを失い、
「口あたりのよい」、「耳ざわりのよい」趨勢に押
し流され勝ちだ。我々は時々「足を踏んだ側」から
「踏まれた側」に立場を変えて、歴史の一こま一こ
まを見つめ直す必要があると思われる。     
 私が中国に滞在中、必要以上の大音響で耳に入っ
て来る日本の有力な学者、評論家、政治家達による、
あわよくば戦争責任の免罪を得たいがごとき「屁理
屈」や「女々しい言い訳」、それに事実誤認による
と思われる「歴史認識」の内、聞いた中国人が「日
本政府の謝罪を帳消しにする」ほど怒り狂う見解や
論評のいくつかを挙げると:          
 (1)大東亜戦争は東洋民族を解放する為の聖戦であ
  った。                  
 (2)黒竜江省で旧日本軍は降伏し、すべての武器を
  ソ連軍に引渡し、ソ連軍が地中に埋めて、その
  後の管理は中国政府が引き継いだのだから、チ
  チハルで起きたマスタード化学兵器のガス漏れ
  事故は埋め方の悪かったソ連軍か、中国政府の
  管理に問題があった訳で、日本側に責任はない。
 (3)石井中将が率いた731部隊によるハルピンで
  の細菌研究活動は、当時中国で蔓延していたコ
  レラや赤痢等の防疫研究であって、細菌兵器の
  開発ではない。              
 (4)従軍慰安婦は日本軍による強制があったと言う
  証拠はない。               
 (5)南京事件は幻だ。1937年当時「南京市の人
  口は20万人」で、日本軍による占領の1ヶ月
  後には25万人に増えているから、南京で30
  万人も虐殺出来る筈がない。        
に代表される。当然のことながら、私がこれらの現
場に居合わせて一部始終を目撃していた訳ではない
から、これら日本の発言者に対して胸を張って反論
したり、中国の怒れる人々を宥められるほど資料を
持ち合わせてはいない。しかしながら、これら5つ
の項目の内、 (5)南京事件のことは日中の歴史問題
の中でも象徴的なテーマである。たまたま私が過去
10年間、南京の東隣に位置する鎮江市と南隣の杭
州市を仕事場としていた関係で、南京事情について
は少々心得ており、この立場を生かして、せめて多
くの日本人が誤解していると思われる「南京の人口
は20万人」の風説だけでも解消させることを試み
たい。                    
 国土面積が日本の26倍と言われる中国は23省、
5自治区、4直轄市に分かれている。従って一つの
自治体の平均面積は日本全国土の8掛け位い大きい
サイズになる。「江蘇省」は小さい方だが、北海道
と青森県を足した位の広さがあり、距離的に日本に
近く、とりわけ「江南」と呼ばれる省の南部地方は、
奈良・平安の昔から遣唐使の上陸地点でもあって、
日本との縁は深い。江南地方は中国の心臓部と言わ
れ、経済・文化の中心的存在、首都が北京へ移る以
前は政治の中心地でもあった。東シナ海に面した上
海市から300km西の南京に至る長江沿いに蘇州、
昆山、南通、無錫、常州、揚州、鎮江といった人口
数百万を抱える大都市が数珠繋ぎに並んでいる。日
本で言えば東海道みたいなもので、上海が東京・横
浜なら、南京は京都にあたる。         
 江蘇省は13の行政区に分かれる。日本人にとっ
て紛らわしいのは、中国では行政区のことを「市」
と呼んでいることで、日本の川崎市とか小田原市の
ように市街地や繁華な町に付ける地名とは全く異な
ることだ。問題の「南京市行政区」は日本の「京都
府」よりひとまわり大きく、人口は550万人、南
京の市街地は「京都市」の半分位の面積で、人口は
280万人居り、どちらの数字も「20万人」とは
桁違いに大きい。市街地の中央部に大昔に建てられ
た城郭が今も残っている。中国では殆どの大きな町
や古い町には「城郭」があって、たいてい2〜3k
m四方の正方形か長方形、たまに地形の都合で「南
京城」のように菱形等の変形もある。三国志の時代
「南京城」は呉の孫権の本拠地で、日中戦争当時は
国民政府の首都だから、清の時代になって新しく出
来た「北京」と肩を並べる中国の大都会、その防衛
を託す「南京城」だけは特大で、周囲が33km、
東京の山手線のサイズである。城壁の高さは12m、
壁の厚さが1m以上あり、城壁の上を兵士が行き来
できるようになっている。城門は東西南北の20ヶ
所に設けられ、城内には巨大な穀物倉庫と全ての役
所や外国公館、多くの学校に病院、劇場、大小の屋
敷から下層階級用の集合住宅、市場は何ヶ所にもあ
り、何本かの河川もあれば、ちょっとした田畑まで
ある。外敵に囲まれても城門を閉じれば5年や6年
は立てこもれるように出来ている。城郭は市街地の
約半分の面積を占めるから、東京の世田谷区と大田
区を合わせた大きさとなり、城郭内の人口は当時の
記録からも130万人居たことが判っている。  
 1937年、日本軍は大増強された。11月4日、
松井石根大将の率いる「中支那方面軍」16個師団
が海軍の応援を得て杭州湾へ敵前上陸、12月13
日に南京へ入城した。日本軍の南京占領に先だって、
南京市街に居住していたドイツ、アメリカ、オース
トラリア等の外国人が先頭に立って、国際安全区委
員会を結成、南京城内中央部の一画3km四方を仕
切って「非武装地帯」を作った。これを「難民区」
又は「国際安全区」と呼んだ。京都市街地の真中に
平安京があるのに似ている。この3km四方の「難
民区の人口が20万人」であったことは当時の南京
市役所の記録にあるし、ドイツのジーメンス社・南
京支社長が残した「ジョン・ラーベの日記」とも一
致する。                   
 国際委員会の代表を務めるジョン・ラーべは蒋介
石に「難民区は民間人の避難場所につき、国民政府
軍兵士の立ち入りを禁じて欲しい」と陳情、一方、
日本大使館を訪ね、「民間人しか居ない難民区を攻
撃しないよう日本軍に指示して欲しい」旨を申し入
れ、日本大使館からは「努力する」との回答を得て
いる。                    
 ところが、日本軍が首都南京へ到達する1ヶ月前
に、国民政府は首都を南京から2000km西の重
慶市へ「遷都」する。総統の蒋介石が重慶へ移動し
た後の南京防衛を唐生智将軍とその配下の7個師団
に命じるが、将軍は日中両軍が接触する前夜に逐電
してしまう。総大将を失った10万余の国民政府軍
将兵は大混乱、あろうことか多くの将兵が武器を捨
て、軍服を脱いで非武装の「難民区」へ逃げ込んで
きたのだ。難民区周辺の道路は兵士達が投げ捨てた
武器や軍服で足の踏み場もない状況であったと言う。
日本軍がこれを見れば、東京の千代田区位しかない
「難民区」の中に多くの国民政府軍兵士が平服で潜
んでいることは明らかで、日本軍は1ヶ月かかって
「20万人」と言われる「難民区」の住民を一人一
人厳しく検査したところ、「25万人居た」ことが
判った訳で、「南京市の」ではなく、「難民区の」
人口が「20万人から25万人に増えた」ことへの
説明もつく。                 
 問題は検査の結果「兵士とおぼしき人々」を連行
し、また抵抗した「婦女子を含む民間人」までをも
処刑した日本軍の残虐行為が、中国人からばかりか、
国際的に非難を浴びる結果となった。戦後日本政府
による発表では、この時処刑した人数を84000
人としているが、当時南京市街地で活動していた国
際委員会の推計では5〜6万人と見ている。だから
と言って、「南京大虐殺は30万人」の中国側歴史
記述を「誇張だ」等と今の日本人が言い張る訳には
いかない。「正確な死者の数は誰にも確認出来ない」
かと言って「南京大虐殺は幻だ」は全く不見識な主
張だ。中国の歴史教科書や戦争博物館に展示されて
いる写真が合成されたものであったとしても、その
写真の光景は「当らずとも遠からず」で、生き残っ
た人々が「阿鼻叫喚の情景を後世に伝える」目的で、
粗末な撮影機材と現像技術で作り上げたものと考え
るべきだろう。             

生活者主権の会生活者通信2005年08月号/05頁