生活者主権の会生活者通信2005年02月号/03頁..........作成:2005年02月03日/杉原健児

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靖国に想う

千葉県柏市 峯木 貴(mineki@taurus.bekkoame.ne.jp)

 家族の年中行事の一つに「靖国神社」への初詣が
ある。                    
 私が靖国神社に毎年参拝に行くようになったのは、
妻の祖父が軍人であって、先の大戦で海外で戦死し
祀られているためである。先祖の供養をすることは
当然のことであるのだが、妻から「靖国神社」に祀
られていると聞いた時、10数年も前のあの騒ぎの最
中であったためドキリとしたものである。原爆で幕
を引いた戦争の痛ましさ、ただ死んでいくだけの軍
人、敵といえども人間を殺戮するという異常な状況、
戦犯の霊を祀ってある神社....と、さまざまな思い
をいだいて初めての靖国参拝をした。      
 ところが、そんな思いとは裏腹に靖国神社は非常
に美しいところであり、初詣の客で賑わっていた。
どこにでもある神社の風景である。鳥居をくぐり、
拍手を打ってお参りをすませた。別に変わったとこ
ろはなかった。日本人なら当たり前のことをしてい
るだけなのに、なぜあんなに騒ぎたてるのだろうか。
その時初めて感じた。             
 昨年のことになるが、私も厄年を迎えお払いをし
てもらうため本殿に入る機会を得た。1月1日の朝で
あったが、既に先客が来ていたらしく献花もされて
いた。そこには、               
 「内閣総理大臣 小泉 純一郎」       
と書かれていた。やけに報道人が多いと思っていた
が合点した。その後の騒ぎはご存知のとおりである。

 騒ぎの発端は、私が参拝を始めた昭和60年に遡る。
その年に、靖国への首相の参拝反対が最高潮に達し
た。A級戦犯の合祀というのが論点の一つであった
が、日本国内ではこれについては何の問題もなく済
まされていた。また、その当時は海外からも中国の
ごく一部の人が反対していただけで、これといった
批判もなかった。               
 ところが、昭和60年8月15日に中曽根首相(当時)
が公式参拝したとき、それまでに数名の首相が公式
参拝したにもかかわらず、新聞各社が「戦後初の公
式参拝」と誤報してしまったことで、中国でくすぶ
っていた一握りの反対者に一気に火がついてしまい
騒ぎが拡大してしまった。そのことが今日まで連綿
と続いている。                
 また、政教分離という観点から公式参拝を反対し
ている人もいるが、普通の日本人ならば神社では拍
手を打つし、お寺では手を合わせ、教会では十字を
切る。これは宗教でもなんでもない。      
 日本人として、神社へ参拝することはごく日常の
行為である。その神々が「軍神」であろうが、「山
神」であろうが、「犬神」であろうが、「木の神」
であろうが、「剣の神」であろうが、「住居の神」
であろうが、「雷石の破片の神」であろうが、およ
そ神とつくものであればなんでもよいのである。八
百万の神といわれ日本独特の風習である。そして、
その神社がどのような理由で作られたかということ
も、やはり「八百万」とおりあっても不思議ではな
い。その八百万の神から「軍神」だけが除かれる謂
れはないため、それを祀ってある靖国神社が特殊で
ある理由はない。               
 特に、海外から批判されることは迷惑千万である。
例えば、あなたが他人から「あなたのその行動は不
愉快だ」と家庭内の行動について批判されたらどう
するだろうか。怒りだすか、それとも無視するかど
ちらかだろう。謝罪してこれから気をつけます、と
いう人は絶対にいないはずだ。         
 国家というものはそうした家庭を最小単位とした
巨大な塊である。または家庭そのものの延長でもあ
り、家庭の一番外側を覆っているものでもある。そ
の覆いとは、家庭でいえば父親の威厳であるが、国
家でいえば軍事力と国際条約であり、それがなけれ
ば、国民は外界の厳しい環境に直接さらされること
になる、というような重要なものである。    
 そして、それらがなくなると国内の平和は保たれ
なくなる。家庭であれば父親の威厳がなくなると崩
壊するのと同じである。従って国家と家庭はある意
味で相似形である。そして、その家庭を守るのが家
長であり、国家を守るのが元首(日本の国家元首が
天皇か首相かは議論があるところだが)であろう。
 さらに、国家にあれば元首が、家庭であれば家長
が国内の政(まつりごと)や家庭の行事を守るべき
であり、他人から干渉される筋合いはない。   
 小泉首相は中国に対して、言い訳がましく「不戦
の誓いで参拝した」と伝えているが、参拝に理由は
いらない。ただ黙々と霊を弔えばよいのである。 

生活者主権の会生活者通信2005年02月号/03頁