生活者主権の会生活者通信2004年10月号/05頁..........作成:2004年09月23日/杉原健児

全面拡大表示

<道州制実現特集>
廃藩置県は何故成功したか?(第2報)

文京区 松井孝司
 「道州制=廃県置州」は平成版「廃藩置県」であ
り、その本質は国家の構造改革でなければならない。
「廃県」を単なる広域行政区画の変更で終らせては
ならないのである。
 道州制の意義は「小さな政府」の実現、中央集権
制で派生している既得権の解体にある。既得権を解
体することは、既得権を持つ当事者には不可能であ
り、既得権を持たない人間が、人知を尽して行動し
ない限り、真の構造改革は実現しないだろう。
 生活者通信第83号(2002年7月号)では、
明治期における時代の背景と各藩の財政事情という
歴史的事実を踏まえて「廃藩」に至る経緯を説明し
たが、福沢諭吉は「廃藩置県」が成功した一番大き
な理由は、「知力」にあるとし、人知の重要性を指
摘している。
 福沢諭吉は「文明論の概略」の中で、廃藩置県を
遂行したのは執政の英断ではなく、門閥なき者、門
閥はあっても不平を抱く者、または無位無禄の貧書
生で、「知力」はあっても銭のない改革家が「衆論」
をつくり、衆論によって政府を改め、遂に封建の制
度を廃することができたとしている。廃藩置県は士
族などの既得権者には極めて不利で、殆どの人が好
まなかったことであるが改革家は「知力」の量を以
って人数の不足を補い衆論を形成することができた
のだ。
 この「知力」有する者とは誰のことか?
 福沢諭吉は明治29年6月16日付の「時事新報」
で維新第一の功労者は「西郷隆盛」であると述べて
いる。「木戸、大久保と並び称して維新3傑など唱
うるものあれど、西郷の名望は他に傑出して、実際
の技量はともかく、その名望によって行われた事業
少なからず」と述べ「西郷は淡白無欲の性質にして、
元勲の身にてありながら磊落書生の生活を以って一
生を終えた」としている。福沢のいう「無位無禄の
貧書生」とは西郷隆盛のことだったのだ。
 事実、明治4年の廃藩置県の遂行は西郷がいなけ
れば不可能であった。改革を断行するためには無欲
で、人望のある西郷を必要としたのである。他の明
治の諸改革も西郷を抜きにしては考えられない。明
治5年の学制改革、明治6年の地租改正も、岩倉使
節団一行が膨大な国費を使って外遊している間に西
郷が断行している。大隈重信は岩倉が留守中の内閣
について「大西郷の如きは我輩に向い、足下は政治
が巧者なようだから、万事足下に任せる」と述べ、
印鑑も大隈が預かっていたそうだ。諸改革は西郷が
断行したというより、大局を見て判断を大隈に任せ
たと観るべきかも知れない。関係者を集めて議論し
ていたら短期間に諸改革を断行することなどできな
かっただろう。
 西郷は明治4年に「政治上の意見書」を提出し、
「政府の諸官員はその本藩に復帰せしめてその数を
減らし、特に聡明なるものを再選する」、「法律、
兵制の治権は、帝国の各州を通じて同一とし、兵隊
の数は銭財の額により確定する」、「紙幣の発行を
減らし、予備の資本を作って会社の創立を奨め、貿
易のバランスはわが国に利するよう謀る」、「中央
政府の制度は永く続行せらるべしと思われず、その
生ずべきところの不利の数、実に枚挙にいとまあら
ず」(マウンジー著「薩摩反乱記」)と述べている。
西郷は勝海舟の説く「共和制」に賛同しており、中
央集権制には反対だったのだ。中央政府と決定的な
対立を生み出すことになったのは当然の成り行きで
あった。
 地租改正の後、西郷が鹿児島に帰ってしまったの
は「九州独立」を考えていた可能性が高い。福沢諭
吉は西南戦争の直後「分権」の必要性を説いている
が、西郷、福沢こそ「地方分権」「道州制」の元祖
というべきかも知れない。
 西南戦争で西郷は国賊とされ、官許を得て罵詈讒
謗する者が多いことに抗議し、福沢諭吉は明治10
年に「丁丑公論」を執筆し西郷を弁護しようとした
が、公表されたのは20年以上も経過した明治34
年になってからであった。
 「丁丑公論」には「政府の官員たる者は、漸く都
下の悪習に倣い、妾を買い妓を聘する者あり、金衣
玉食、奢侈を極る者あり、あるいは西洋文明の名を
口実に設けて、非常の土木を起こし、無用の馬車に
乗る等、郷里の旧を棄てて忘れたる者の如し」と書
き、乱の原因は政府にもあり、「西郷の死は憐れむ
べし、之を死地に陥れたるものは政府なり」と指摘
している。
 中央集権制は、戦争の遂行には必要な制度であっ
たかも知れないが、権力者の不正を摘発することが
難しい制度である。明治の政変では幕府の既得権者
は淘汰されたが、逆に政府に取り入り財を成したも
のも多かった。表沙汰にはならなかったが不正が横
行したことは間違いないのだ。そもそも政府が財政
窮乏の極みにあるとき、岩倉一行が大挙海外に脱出
したことも不審きわまることである。
 足軽の息子であった山県有朋などは40歳で東京
目白の椿山荘を手に入れ、京都では鴨川と南禅寺の
2箇所に無隣庵を、日本全国では9つも別荘を作っ
た。今だったら政治家の財産形成について厳しく追
求されるところだ。西郷は長州人の不正蓄財を黙認
できず、右手で政治を、左手で商売をする手法に我
慢がならなかったに違いない。司法省長官であった
江藤新平は、中央政府の不正を糾そうとして逆に殺
されてしまった。
 道州制の実現には廃藩置県後の歴史と経緯を他山
の石としなければならない。道路公団の民営化の例
を見ればわかるように、官僚や族議員は巧妙に税金
投入の道をつくり、既得権を温存する制度を創る。
旧制度の既得権の解体と同時に、新しい制度で新た
な既得権を生まないように、権力の肥大化、「大き
な政府」への歯止めが必要だ。
 道州制の実現で成果を期待するには、軽重浮薄で
「知識」を誇る学者の理論ではなく、無欲の人間の
「知力」が求められるのである。

生活者主権の会生活者通信2004年10月号/05頁