生活者主権の会生活者通信2002年01月号/06頁..........作成:2001年12月24日/杉原健児

全面拡大表示

教育権を主権者の手に!

文京区 松井孝司(tmatsui@jca.apc.org)

  本誌76号(2001年12月1日発行)で「教育改革」
の重要性を指摘しましたが紙面の関係で十分に意見
を記すことが出来ませんでしたので補足させていた
だきます。                                    
  1872年(明治5年)の学制改革は廃藩置県に勝る
とも劣らない大改革でした。「邑に不学の戸なく、
家に不学の人なからしめん事を期す」ことが宣言さ
れ、わずか数年で約2万6000の小学校が設置されま
した。                                        
  その多くは寺子屋を転用したものですが、その寺
子屋は民衆が自発的に築いた組織で幕府の監督もな
いが、補助もなく、一般庶民に教育への欲求があっ
たからこそ普及した自立した組織で、庶民が求める
自由な教育が行われていました。寺子屋こそわが国
NPO(非営利組織)の元祖だったのです。      
寺子屋に場を借りた小学校で武士の子供も町民、農
家の子供も区別されず一緒に机を並べて競い合った
ことは画期的なことでした。明治時代は富国強兵が
国家の大方針であったため、教育カリキュラムも西
欧諸国に追いつき追い越すための画一的集団飼育教
育が中心でしたが、公教育を受けた平民出身の子供
が社会の枢要な地位を占めるようになり、戦前の日
本社会は明治初期の教育改革によって革命的な変化
を遂げました。                                
  戦後の教育も制度上、憲法改正とともに再び革命
的変化を遂げる筈でした。しかし、画一的集団飼育
教育は続行され、暗記中心の教育カリキュラムは殆
ど変わりませんでした。                        
  憲法第26条に、すべての国民は「教育を受ける権
利」を有することと「保護する子女に普通教育を受
けさせる義務」を負うことを規定し、教育権は「個
人の権利」であることが明記されたのですが、主権
者となった国民にその自覚がなく、教育権の信託先
を明確にしないまま放置してしまったからです。  
  憲法は主権者の意志に基づく、自由な教育を実践
する権利を保障してくれたにも拘わらず学校の設立
や教育カリキュラム作成を「学校教育法」にまかせ
たために、事実上教育権は、政府官僚(文部省)と
いう無責任集団に渡ることになり、本来なら地域住
民の公選により信託された地方自治体の教育委員が
担うべき責任が曖昧になってしまったのです。    
貴重な財産の信託先を間違えると破産し、家族は路
頭に迷うことになりますが、教育権の信託先を間違
えると個人の成長を誤らせるだけではなく国家は衆
愚政治に陥り破綻します。                      
  これが現実の問題になりつつあるのは憂慮すべき
ことです。                                    
  昭和23年7月「教育委員会法」が施行され、昭和
27年の11月までに各地方自治体に教育委員会の設置
が完了しました。教育委員制度は、公正な民意によ
る教育行政の運営、地方の実状に即した運営、教育
への不当な支配の排除を理念とし、委員は公選によ
り選ばれました。ところが昭和31年10月全国的な教
育水準の維持向上、教育の機会均等をはかるためと
称して教育委員は任命制となり、政府主導の画一的
教育体制が確立することになってしまったのです。
  故槌田龍太郎阪大教授は「教育委員の公選制が廃
止されて教育の実権は完全に政府の手に帰し、小、
中、高の校長は管理職手当ての目くされ金で政府の
目あかしになってしまった。」                  
  「かくて私たちのたいせつな子供たちが、自民党
の思いのままに飼育されようとしているのに、親た
ちは憤りも悲しみもしない。」「今かりに社会党や
共産党が政権をにぎったとしても、第二次大戦前の
教育を受けた日本人が政権をとり、同じ飼育を受け
た国民がこれに盲従するかぎり、悪い政治−悪い教
育−悪い政治の悪循環はとめどもなくくり返される
にちがいない。」とされ、「教育権の独立と教育委
員公選復活と教育予算の確保によって、教育を政党
の魔手から救い出して、主権者たる国民みずからの
手に取りもどさなければ、日本民族の将来は、はな
はだ危ういのである。」と指摘されました。(1959
年化学10月号参照)                            
  日本の民主主義がいつまでたっても成熟せず、政
権交代の受け皿となる筈の野党も育たず、官僚の専
横を許し、利権集団と化した政党による政権が長期
間に亙り続いてきたのは、槌田教授が指摘されるよ
うに自立した市民の育成を怠ってきた戦前、戦後の
教育に起因することは疑う余地がありません。    
  今日本は財政破綻の淵にたち、創造性を蔑ろにし
てきた産業は衰退の危機に直面しようとしています。
この危機を救う人材を早急に育成する必要があり、
日本再生のために教育改革は避けて通ることは出来
ない緊急の課題ですが、問題は教育をどう変えるか
にあります。                                  
  文部省もそれを自覚したのか、平成14年度より、
「ゆとり教育」の名のもとに、学習指導要領で強制
する「与える教育」の内容は最小限に留め、自主的
な「求める教育」への転換を模索しているようです。
  教育行政についても、教育長の任命承認制度が廃
止されるなど、国と地方自治体が対等な立場で協力
して地方教育行政を推進する制度への改革が進めら
れています。                                  
  しかし、従来の学校を中心とする公教育が教育に
占めるウエイトは相対的に縮小させることが望まし
いと思われます。財政難の地方自治体にとっては、
無制限に教育費を支出わけには行かなくなり、教育
の費用と効果を厳しく問うことになるでしょう。現
在1人当たり小学校では86万円、中学校では94万円
の税金が投入されていますが、この教育費負担は地
域社会にとって耐えがたい重荷となり、学校が何を
生みだしているか、学校に通って得られるものは何
かが問われるようになり、退屈な学校、刺激の無い
学校、何事も達成することの学校は税金の無駄使い
として拒否されるでしょう。                    
  一方21世紀は知識の陳腐化も早く、産業社会で求
められる教育は学校教育では到底充足できないもの
となり卒後教育、実社会に出た後の継続教育が重要
性を増し、従来の教育システムを大きく変えること
になるでしょう。                              
  費用と効果を斟酌しながら実践する教育には地方
自治体の役割、地域住民の役割がますます重要性を
増すことは間違いないし、又そうしければならない
のです。                                      
  21世紀に求められる自由な教育、教育の多様性を
許容し、多彩な人材を輩出させることができるか否
かを決定する責任(納税義務)と権限(学ぶ権利)
は、憲法に規定される通り、地方自治体の主権者で
ある地域住民が担っているからです。            
                松井孝司 (tmatsui@jca.apc.org)

生活者主権の会生活者通信2002年01月号/06頁