自己回帰 -10

東京都渋谷区 塚崎 義人

 

「かたよらないこころ、こだわらないこころ、とらわれないこころ、

ひろく、ひろく、もっとひろく〜〜〜」

薬師寺元管長・故高田好胤師

 

こころ(統覚)-10

<瞑想(無意識の意識化)>

  領 域 | 構 成 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

|(色)       [  仮 装 (みせかけ、     仮象性)]

  眼  |・・・・・・・・          ↑↓

|(受)       [  自 分 (わたくし、      社会性)]

・・・・・・・・・・・・・・・・         ↑↓

      |  |   |表   [  自 我  (まわりとちがう、    個 人)]

      |意 |   |象

  意  |  |(想)|・・・・       ↑↓ 

      |識 |   |心  [  個 性  (あらわれる、        原 像)]

      |  |   |象

      |・・・・・・・・・・・       ↑↓

   識  |無 |(行)    [  人 格 (たいせつさ、      真 性)]

      |意 |・・・・・・・・       ↑↓

      |識 |(識)    [  自 己 (すべてあてはまる、  普 遍)]

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

自灯明・法灯明

自(みずか)らを灯明とし自らをより処として、

他のものをより処としない、

       法を灯明とし法をより処として、

他のものをより処とすることのないように。と

ブッダは述べられた。

 

 <社会的心>

色 = 仮装(みせかけ)・・・・・・・・・・・・知性(求め、求められ  道理)    

受 = 自分(わたくし)・・・・・・・・・・・・理性(とらわれ     理解)

    ↓↑

<個人的心>

想 = 自我(まわりとちがう)・・・・・・・・・感性(ものごと     感動)

    個性(あらわれる  )

    ↑↓

<深層的心>

行 = 人格(たいせつさ)・・・・・・・・・・・体性(どのような    人生)

識 = 自己(すべてあてはまる)・・・・・・・・霊性(すぐれた     聡明)

 

人格的整合性(知性・理性・感性・体性・霊性)の瞑想(無意識の意識化)!

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「なにものか」

 

 なんともいえぬ真性人格の魅力から解放されると、本来の自分に戻ります。

ぼんやりと、いっそうはっきり感じるもの。

それが、自分自身“なにものか”にほかなりません。 

 

今、意識しているものとは違うとても身近なもの、まさに自分自身と分かっているのに、それをとらえることができない。

 奥深く秘められている、心の世界の「真ん中」なのかもしれません。 

 

物質(宇宙)にも、生物(生命)にも、心(統覚)にも、すべての世界に同化できるもの、そのくせ不思議な思いもさせず、不信の念さえ抱かせない。

 それが“なにものか”です。

 

人格的整合性(知性・理性・感性・体性・霊性)の究極な概念にすぎないのかも。

それを、「自己」とよびます。

 

 自己は、心の世界でそれそのものとしては把握できません。認識不可能なものとして表現するしかなく、理解を超えているもの。

  ほかの言いかたは、内なるもの(神とか、覚りとか、悟性とか)なのかも。

 

人の精神的な生活はまさにこの一点に、すべての問いへの解きがたい糸ぐちとして。

自己回帰(ふりかえり見つめなおす)も、これが目指す行きつくところかも。

 

 自己(なにものか)を、一つの自律している心的内容として理解しようと、よく、道徳的な課題として論じられますが。

けっして自己は、道徳に立ち入ることはありません。

 

 歴史的流れでも、なにものか(神、覚り、悟性)は哲学的な理解や観照のようで、人が求めてやまない自己への自己回帰も、しょせん到達しがたく。

たとえて、神、覚り、悟性、という概念を用いているのかも。

 

 自律的な心的内容のはたらきに、神、覚り、悟性、という属性を負わせ、さらに自己なるものという概念を用いると。

あらゆる心的内容(心的原像)のはたらきを、うまく表現できるようです。

 

 自己を、感じられるというのは、万に一つの結果といった性格をもち、一歩、一歩、成就していくしかほかなく。

はじめて、そのまま身につくようなものかと。

 

 自己は、こうなんだというのは無理、心の世界(社会的心・個人的心・深層的心)に属しているわけでもなく、自己の周りを浮遊し回っているんだと感じられたとき。

個性化(利己的でなく、仮装でなく、暗示に負けず)が達せられたのかも。

 

 “感じられた”とは、それによって自己と瞑想(無意識の意識化)との関係を感性的な知覚で言いあらわすためで、この関係には認識できるものは何もなく。

自己(なにものか)について、何も述べることはできません。

 

 自己について、唯一、意識しえるのは自我の範囲のみ、もしも、自我が個性化(利己的でなく・仮装でなく・暗示に負けず)されたとしたら。

自らは、自己(主体)の客体なんだと感じるのでは。

 

自己という概念が、それ自体すでに、超越的な、なにものか(神、覚り、悟性)と神学的に認められていたとしても。

科学的には明らかにすることのできないもの。

 

私たちにできるのは、無意識の中に入り心的原像と正面から向きあい、現れてくるさまざまな心的原像の形姿に釈明をさせ、それを救う。

それしか、“自己(なにものか)”とかかわる道はないようです。

 

   *ですので、はじめの「忘却のかなたから-1」へ戻り、

世の中の“社会的原像”と向きあいます。