最高裁判決を受けて――人権後進国・日本

                    保険受給権確認訴訟原告がん患者 清郷 伸人

 

1. 判決の評価

 20111025日、私は最高裁判所にて私の上告を棄却するとの判決を受けた。私の提訴の内容は、保険外診療である活性化自己リンパ球移入療法(LAK療法)を受けても保険診療であるインターフェロン療法の保険は給付されるはずだというもので、地位確認の行政訴訟といわれる。

1審は保険給付を定めた健康保険法に、保険診療と保険外診療の併用(いわゆる混合診療)において給付を一切停止する規定はなく、国の法解釈は誤りとして私の請求を認めた。しかし2審は健康保険法の保険外併用療養費規定に該当するもの以外は保険給付を受けられないと解釈すべきで、混合診療は禁止と解するのが妥当として憲法判断も含めて私の請求を退けた。そして最高裁は2審判決を維持し、私の敗訴は決まった。

 私は判決後の記者会見で「最高裁を含む日本の上級裁判所に対し、深い絶望を覚える」と述べた。私の訴訟の本質は、既述のように混合診療の解禁そのものではなく、私の治療に必要な混合診療を行った場合に健康保険受給権を奪われることの法的根拠の有無であり、仮に法的根拠が認められるなら、その法律の違憲性(生存権、幸福追求権、平等権、財産権の侵害)を問うことである。最高裁における上告審で、私は保険受給権が公的医療を受けることと同義で社会保障の根幹であり、これを奪われることは憲法に謳われた基本的人権を侵害するものだと強く主張したが、最高裁判事は5人全員がこれを認めなかった。

裁判所が私の保険受給権はあるはずだという訴えに対し、法的根拠があるから却下するという判断は認めたくはないが理解できる。混合診療禁止が財政面からも医療安全面からも必要で合理的な政策とし、健康保険法の保険外併用療養費規定の反対解釈によってその法的根拠とするのは理解できる。しかし、この保険受給権取り消しを定めた法律とその行政執行が憲法に違反していないという判断はまったく理解できない。私の絶望の淵源はここにある。

一つでも保険外診療を受けたら保険診療も含めてすべての医療が自費になるというこの医療制度を白紙の状態で普通の市民に聞いたら100%そんなバカなという。これが法規範よりもっと普遍的な社会規範、いわば世間の常識というものである。常識からすると、あり得ないような国民の権利の侵害なのである。それは患者にとっては命をつなぐかもしれない保険外診療を受けると家計破綻、あきらめると斃死という究極のペナルティなのであり、いわば「財産没収か死刑か」に等しい刑罰である。世間の常識はこのペナルティ、刑罰に対して、とてもまともではないと感じているのである。司法は混合診療に対するこのペナルティをあまりにも理不尽な人権侵害とは思わないのだろうか。政策にとって必要だから合憲と判断した最高裁は基本的人権を侵害している国家から国民を守る司法の最後の砦、違憲立法審査権を自ら放棄したといわざるを得ない。それは国家の暴走を正すべき独立した司法が日本に存在していないことを示している。そしてこれほどに行政に擦り寄った司法の姿は、日本が法治国家でなく官治国家であることを表している。

2審も上告審も判決の要点は、財政の制約や医療の平等性、安全性のためには混合診療の禁止という政策は合理的で、それに違反した場合は健康保険の受給権が取り消されても、裁量権の逸脱というほどではないというものである。この判決の本質的な欠陥は、財政や平等性、安全性が患者の生存権や平等権、財産権といった憲法に定められた基本的人権を奪わなければ確保できないと断定していること、すなわちそれらが基本的人権を奪うに値するほどの価値と宣言していることである。

有名な朝日訴訟は、生活の維持という生存権を伴う基本的人権は貧弱な生活扶助政策の口実とされた財政より優位にあると判決した。また医療の平等性や安全性は重要な政策課題だが、基本的人権を奪わなくても法改正や制度設計で確保できる。この国の司法ひいては国家の宿命的問題点は、混合診療の禁止というような政策要請が憲法の基幹理念である基本的人権より優位にあるという権力側の価値観である。かれらの思考には悲しいほどに基本的人権は軽く、人権意識は低いのである。この宿痾が今回の判決で露呈したといえる。

私たちはそういう国で生まれ、生きる運命である。民主主義や基本的人権の思想を外から持ち込まれて半世紀あまり、それらの価値が血肉と化すにはまだまだ時間がかかるのであろう。嘆くのではなく、闘いつづけなければそれらが根付くことはない。

 

2. 判決についた意見

最高裁の判決に至るまでにある出来事があった。6月1日、最高裁から国に突然質問が出され(http://www.kongoshinryo.net/pdf/q-saikousai01.pdf)、1週間後、国は回答した(http://www.kongoshinryo.net/pdf/a-saikousai01.pdf)。最高裁はさらに詳細な回答を求め、10日2回目の質問を行った(http://www.kongoshinryo.net/pdf/q_saikousai2.pdf)。1週間後、国は答えた(ttph://www.kongoshinryo.net/pdf/a_saikousai2.pdf)。判決文を読むと、判事が判決を書くために質問したようだが、2回目の質問は、政策を達成するには差額徴収を禁ずるだけで十分なのに患者の保険給付を除外する詳細な合理的理由は何かという本訴訟の根源的なものであった。この質問に私は良い結果を期待した。なぜなら国の回答の内容はそれまでと変わらず、新しい主張はなかったからである。しかし期待は裏切られた。判事は全員が以前と変わらぬその回答に満足したのである。何のための質問だったのか。

原告にとって判事の全員が上告棄却という判決は絶望的な結果だが、判決には5人中4人の裁判官の意見がついた。これは異例のことらしい。原告の私にとっては不可解な言い訳としか思えない意見の内容を吟味してみる。

 

1)混合診療において保険受給権を取り消す法規定(保険外併用療養費)の不明確性

 大谷判事は、法は評価療養以外の先進医療をどのように扱うか、正面から規定を置いていない、診療を提供する側についての規範のいわば裏返しとして、診療を受ける患者側の権利、義務が導かれることになり、患者にとって甚だ分かりにくい法構造となっていると指摘し(27頁)、法規定の反対解釈の問題性を突いている。すなわち保険医が提供できる医療の範囲という規範が、患者の保険受給権の適否に直結するという構造を持つこの法規定は、明確であるべき法規定として不完全だということである。

 田原判事は、保険受給権適否の問題は健康保険の給付という高度な政策判断が求められるため、開かれた場で多くの利害関係者によって掘り下げた議論が行われて法に明確な明文規定が設けられるべきであったにもかかわらず、厚労省も国会もこれまでの法改正の過程で正面から議論してこなかった、そのため現行法は保険受給権適否について1審と2審のように異なった解釈の余地のあるものとなっている、この法規制のように対象者が広範囲に及ぶ場合は異なった解釈の余地のない明確な規定が定められるべきである、またどのような場合が保険給付の受けられない混合診療かという基準も明確な表示がないため萎縮医療につながる可能性があると指摘している(2021頁)。核心を突いた指摘である。しかし厚労省は審理の場で、最後までその基準、混合診療の実例をあげた定義の提示要請に答えなかった。当然である。かれらにとって法律は不明確であるほど良い。実際、ほとんどが行政立法の日本では法律はそのようになっている。そして曖昧な霞が関用語に満ちた法律に対する第一位の解釈権を持つことが行政の強さの源泉であり、わかりにくい法律は官僚の専断である趣旨解釈で運用するに限るのである。立法府の議員は選挙対策ばかりで不作為、司法の裁判官は行政追認の判例集、それが国民不在の官僚主導国家を作り上げた。

 

2)評価療養の迅速で柔軟な運用を望むという行政への要請

 田原、大谷判事は、医療技術、新薬の開発は目覚しく、海外で承認されたそれらの早期使用は既存の治療から見放された患者の切望するところで、迅速に評価療養の対象となるよう柔軟な制度運営が期待されると述べている(23頁、30頁)。また岡部判事は、しかるべき医療技術の有効性の検証が適正、迅速に行われ、評価療養として取り入れられることが肝要としている(26頁)。これらの意見はもっともに思えるが、患者から見るとこの政策の実態を知らない者の気休めに過ぎない。次々に開発される医療技術や新薬を一握りの集団が事前に検証している日本では、使用できるまで日進月歩の欧米に遅れること数年や十数年というのはザラで多くの患者は待ちくたびれて亡くなってしまう。

 その背景について寺田判事は鋭い指摘をしている。「公的医療平等論は、もともと昭和59年改正前から国の制度論を支えていた哲学とでもいうべき基本的な考え方とみられ、この考え方の下では、自由診療を保険制度と関連付けて公認することを極力避けようとする傾向がみてとれるだけに、この考え方がなお制度の根底に据えられているとするならば、評価医療の認定対象はきわめて限定的となることも十分考えられる」(35頁)。寺田判事だけが例外的な混合診療をできるだけ増やしたくない厚労省の編み出した保険外併用療養費制度のまやかしを見破った。この哲学は厚労省と医師会一体の護送船団のマニフェストである。国会も国民の命を人質にした大票田の医師会が怖くて医療制度改革の立法など言い出せない。こうしてアンシャン・レジームにしがみついている間に、世界から取り残された日本の医療は崩壊していくのだろう。

黒岩神奈川県知事も次のように述べている。「厚労省の予防接種部会のメンバーとして過ごした1年半は私にとって大きな収穫だった。日本のワクチン行政のお粗末さ、政治の貧困、スピード感のない意思決定システム、患者不在の政策決定過程など、…医療界の現実を生々しく感じることができたからであった。2009年秋、予防接種法の抜本改革のためにと開かれた厚生労働省の検討会であったが、2年の歳月を経た今も未だに検討ばかり続けている。私のスピード感からすれば、想像を絶する遅さであった。要するに、抜本的に変えるつもりは端からなかったのではないかと思わざるをえない。…考えてみれば、全員が役所に指名されたメンバーなのだから私が期待することそのものが間違っていたかもしれない。…私は民主党政権の政治主導に期待していたが、現場ではツユのかけらも感じることはできなかった」。(2011年現場からの医療改革シンポジウム)この指摘は会議の名称が先進医療でも未承認薬・適応外薬でも医療制度でも大同小異であろう。
 このような行政の実態、政策の停滞を見れば、3人の判事の意見がいかに能天気なものかがわかる。見過ごせないのはこの楽天的な意見が判決に重要な意味を持っていることである。田原判事は平成16年の厚労大臣と特命大臣の「いわゆる『混合診療』問題に係る基本的合意」に則って先進医療の評価療養への採用が十分に活かされていると述べ(23頁)、岡部判事も評価療養によって混合診療保険給付除外の原則はすでに緩和されているとし(26頁)、大谷判事も評価療養、保険外療養制度が医療ニーズの多様化、医療の高度化の問題への穏当な解決へのレールが敷かれてきていると述べている(30頁)。そしていずれも患者に重大な影響を及ぼし、過剰な規制と映ることはわかるとしながらも、混合診療保険給付除外原則が平成18年改正法以後も適用されることによる弊害は現時点では窺えないと断言している(23頁)。がん患者の治療選択肢を狭め、多くの理不尽ながん死を招いている混合診療保険除外原則は違憲だという私の訴えに対する答えは、このように政策により保険除外の問題は解決されつつあるという現実論であり、今も混合診療行政処分の武器となっている健康保険受給権除外原則は妥当と判断され、温存された。

繰り返すが、保険外併用療養費制度で混合診療は実質解禁になっているというこの判決では、広範で日進月歩の医療技術や新薬をカバーしきれない現行のポジティブリスト方式が固定化され、患者にとっては死活問題となるのである。

 

3)保険外併用療養費制度の合理性の問題

大谷判事は、かつて差額徴収を認める自由診療方式において患者の不当な費用負担が社会問題化したため一部の自由診療と保険診療の併用を認める特定療養費制度が創設された経緯をふまえ、保険受給権除外を罰則として一切の混合診療を禁ずることは立法政策として合理的だったとして合憲の根拠の一部としている(2829頁)。日本では大きな社会問題が生じると必ず過大な反作用が起動する。熱しやすく付和雷同する国民性であろうか。差額徴収問題は特定療養費制度すなわち混合診療原則禁止という過剰な規制を起動した。児童の予防接種による死亡問題から厚労省はワクチン離反という過剰な不作為政策へと走り、現在のワクチン後進国を招来した。世論が沸騰している時は合理的でも冷静になったら過剰だったという制度、政策は数多くある。見直すべきだが、この国のリーダーたちは時代が変わり、世界が変化しても頑迷固陋であり続けるようだ。今回の判決が示すように。

一方、2審判決維持の結論は妥当としながらも多数意見に与することはできないとする判事もいた。保険外併用療養費制度の合理性に疑問を呈した寺田判事である。判事はこの制度の仕組み自体の合理性も議論のあるところだが、仕組みの中で「併用すると本来の給付をも否定する対象」の決め方、権利を阻害する要件の決め方が問題だという。評価療養は厚労大臣に相当の裁量があっても不合理ではないが、併用に保険給付を認めない自由診療は権利を否定する範疇に入るので、より厳格な指針で範囲を決めるべきとする。厚労大臣の裁量をできる限り排除し、併用する保険診療を保険給付除外とする自由診療の基準を明確に定めた仕組みが求められる、現行のポジティブリスト方式は基準がわかりにくく厚労大臣の大幅な裁量に委ねられていることが問題だとしている(3234頁)。

 また寺田判事は本訴訟の本質に係わる指摘を行っている。私がインターフェロン療法だけ受けていれば保険は給付されるのにLAK療法を併用したばかりに保険給付されないのは不平等で不当ではないかと問うていることに対し、これは混合診療保険給付除外原則がどのような目的を達成するための手段としてどのように合理的であるかという問題提起であり、まさにこの仕組みの「手段と目的の合理的な関連性」について相応の検討が求められていると述べている(36頁)。法律用語は難解なので例を挙げる。公立校の中学生が学力の向上のために私塾に通ったら、生徒の平等性確保や塾の悪影響防止、親の過大な負担防止という目的のためペナルティとして公立校から追い出されることは合理的か、あるいは定年後の生活費のために個人年金を契約したら、年金者の平等性確保や年金財政悪化防止の目的から公的年金を剥ぎ取られることは合理的か、また本訴訟のように混合診療を行ったら財政健全化や医療の平等性、安全性確保という目的のために財産没収か死刑を課されること(本質的にはそうである)は合理的かという疑問である。政策目的が正しいとしても、それらの目的と手段の関連は合理的といえるかという問題である。

 寺田判事はさらに本訴訟がそのような本質的な問題についての議論が深まらず、保険外併用療養費制度を定める法の解釈論議に終始したといえると述べ、争点に疑問を呈している(3536頁)。たしかに1審から論点、争点は次第に法の文言解釈、制度解釈に分け入った感はぬぐえない。そのことで結論が変わることはないであろうが、少なくとも次のことは今後の参考になると思う。もともと異なった解釈ができるように作られた日本の法律では、解釈論という土俵に上がれば、裁判所は国の解釈を採るといってよい。市民は法律解釈などに左右されない強い動機と問題の本質的な論拠こそが最大の武器である。

 

3. 判決の反響や影響

 反響といっても私は判決翌日の各紙に載った厚労省の短いコメントと患者会の言葉しか知らない。私は長い訴訟を単独で闘った。支えてくれたのは家族、友人以外ではボランティアの弁護士と数少ない医師、病院関係者、遠くの患者会だけだった。それで十分だった。今も情報源はかれらとメディア、インターネットだけである。

 患者会の反応は予想したとおり混合診療禁止が維持されて良かったというものである。その理由は、混合診療が認められれば平等に医療を受ける皆保険制度が壊れる、不当な費用負担が生じる、薬害の発生など安全面の懸念が広がる、必要な医療は保険で行うのが基本などである。私はもっともな意見であり、懸念と思う。ただ一つだけ疑問に思うのは、患者会の人たちは本当に混合診療の被害を受けたのだろうかということである。教科書でなく自らの体験や実感で発言しているのだろうか。私が多く聞くのは、逆にがんが良くならず、苦しむ患者が統合医療や代替・補完医療、東洋医学、自然療法、サプリメントを取り入れて、QOLが少しでも改善した話である。欧米ではそれらを併用するのは当たり前のことと聞く。それから必要な高度医療をすべて保険に入れたら財政はパンクする。気持ちはわかるが、保険はがん患者だけのものではない。高額な高度医療がなかなか公的医療にならないのは欧米でも同じである。

 出たばかりの判決の影響について客観的に評価することは難しい。2つだけ述べる。

私の敗訴によって全国のがん患者、難重病患者に希望する医療を受けられる道が閉ざされてしまった。今回の判決で混合診療禁止が固定化した日本では、海外では受けられる先進医療も数年以上待たなければならず、明治の近代化のように黒船という外圧が押し寄せなければ何も変わらないのであろう。私は混合診療のおかげで転移後10年の今も元気だが、たとえば若いがん患者が、保険治療が尽きても海外の先進国で認められた薬や治療を受けられず、続々とがん死する日本は異常である。毎年30数万人ががん死という突出した常態は国家の大きな損失である。

また混合診療がなければ病院での医療は成り立たないといわれ、社会保険中央病院長や厚労省高官が裁判など起こさなくても病院の工夫で混合診療は行われており実害もないと発言するような現状に対して、お墨付きを得た行政権力はさらに強まり、病院の保険指定取り消しや患者の保険給付返還請求といった残酷で野蛮な処分を濫発する可能性がある。その対象となるのは腕がよく、先進医療に意欲的で患者に良心的な医師の多い病院で、理不尽な保険行政の圧力が高まることで、医療の萎縮を招く恐れがある。被害を受けるのは結局患者である。今でも私の周りには、患者のために行った保険外の医療によって処分の危機に曝されている病院は少なくないが、その実態は私の保険受給権取り消しと同様、不合理で中世の宗教裁判を想起させる。

日本医師会は条件反射のように今回の判決を歓迎するコメントを出している。しかし判決内容の持つ危険性には気づいていないようである。その危険性とは司法が、政策で必要ならば法律の明文規定がなくとも行政は趣旨解釈で法律を運用し、行政を執行できることを公認したことである。この行政の大幅な裁量性、恣意性の容認は、返す刀でどのような問題にも切り込めることになったのである。喜んでいる場合なのか。

 

4. 混合診療について考える

最後に、裁判を離れて混合診療について私なりに考えたことを述べる。

私の訴訟は世間では混合診療解禁裁判一色に染め上げられてしまったが、再三述べるように、請求の本質は混合診療の解禁ではない。私の訴えは混合診療においても健康保険受給権はあるはずだというもので、解禁はその主張が通ったら派生的にもたらされるかもしれないものである。しかしまだ療担規則18条、19条がある。保険医、保険医療機関は厚労大臣の定めた医療、医薬品以外提供してはならないのである。その意味で、混合診療禁止は必要で合理的な政策だから私の請求を却下するという判決は的はずれである。私は禁止を問題にしているのではなく、患者の保険受給権取り消しという禁止のための手段が合理的か、合憲かを問うているのである。極言すれば禁止を破ったら死刑に処すというペナルティは合理的で合憲かということである。

一方、混合診療については、私は患者としてそれを自由に選べることを求める。私が良心的な主治医の混合診療のおかげで蝶形骨や頸骨への転移後10年経った今でも元気だからではない。たとえその効果がなく、倒れても混合診療を受けたことを納得するだろう。もともと奏功率が低いのは承知の上である。また私の場合は違ったが治療の大きなリスクも覚悟する。転移した腎がんの残り少ない治療の中から主治医と私はLAK療法を選択し、チャレンジしたのである。効果が期待できる治療があるのに国の制度で使えないといわれ、末期の烙印を押されるなど耐え難い侮辱である。

 このように混合診療には患者にとって治療の選択肢が広がるというベネフィットがある反面、重大なリスクも考えられる。最も多くいわれるのは国民皆保険が崩壊するというものである。その内容は、保険証1枚で時間、場所を問わず平等に医療を受けられるシステムが貧富の差で壊れる、不当に高い患者負担が発生する、安全性や有効性に疑問のつく医療がはびこる、保険収載しなくなる、財政が悪化するなどというものである。

しかし、混合診療を認めている国民皆保険の先進国は英国、ドイツ、フランス、オーストラリア、韓国ほか数多くある。国情による違いは多少あるだろうが、それらの国で皆保険が崩壊したという話は聞かない。よく聞くのは財政事情が厳しいのはどこも共通で、社会福祉である国民皆保険による公的医療と自由価格のビジネス医療の2本が並立しているという医療制度である。だが、そのことで文句をいう人はいないそうである。

いずれにせよわが国では、混合診療を導入すると国民皆保険制度が壊れると口をそろえていわれるので、その内容を検討してみる。

 

1)混合診療を導入すると医療の平等性は本当に毀損されるのか。

たしかに受ける医療内容と費用に差は出るが、医療のアクセスに差はない。JRを利用するのに普通車とグリーン車では料金は違うが乗車に差はないのと同じである。またグリーン車があること自体が平等性の毀損だとすれば、その通りである。だがそれで皆保険が崩壊するかといえばノーである。現状でも高額な自由診療は誰でも受けられるし、保険医療機関における差額ベッド等多くの選定療養はグリーン車である。産科や歯科では混合診療は公認同然である。それでも皆保険に影響はない。そもそも治療は同じでなくてはならない、命の値段に差をつけてはならないという素朴な意見は残酷なパターナリズムである。貧血の者がいるから全員が貧血になるよう食事制限するようなものである。健康な人から栄養を奪う、能力のある患者の希望する医療を奪う偽善である。平等性をいうなら、私たちが本当に考えなければならないのは、栄養のある食事をする者を監視することではなく、食事もできない人のことである。保険料も払えず保険証を取り上げられ、窓口負担も払えないため医療から見放された数百万の人たちである。命の格差はすでに生じている。本当に平等にするならイギリスのように保険料も患者負担もなくして全部税金で賄うべきである。インド南部にいくつかの病院を持ち、年間250万人以上の患者を診察し、白内障を中心に30万人に手術をするアラビンド眼科病院の患者の半数は貧乏なので無料である。それでも寄付に頼らず経営を続けられるのは、徹底したコスト管理と支払い能力のある患者には市場価格でサービスを提供して大きな利益を稼いでいるからである。「私たちのモデルは小手先のテクニックで真似られるものではない。患者に向き合う良心があるかどうかの問題だ」(病院の医師)。このようにして病院は先進国の人しか手にすることのできなかった質の高い医療を新興国の貧困層にまで広げることに成功している。(大竹剛・日経ビジネスオンライン)

 

2)混合診療が認められれば患者が不当に高い自由医療に誘導されるという懸念があるという。

確かにそういう悪質な医師もいる。だから私は混合診療全面解禁論ではない。限定され、選ばれた保険医療機関が公的なルールのもとで、倫理委員会等による自律的な厳正な手続きを経て混合診療を行う構想を描く。その公的なルールこそ叡智を集めて設計されなければならない。混合診療を実施する保険医療機関の要件や実施の要件、患者と医師のインフォームド・コンテントの記録さらにはルール違反の罰則などが定められる。しかし公的なルールも重要だが、最終的に混合診療の妥当性や安全性を担保するものは、病院や医師の自律的な機能しかないと考える。

 混合診療で怪しい治療が横行し、医療の安全性が脅かされるという懸念も理解できるが、本当だろうか。怪しいという情緒的な言葉は、私の裁判で国も多用したが曖昧な用語である。呪いとか祈祷の類なら医療ではない。医療機関はやらないだろう。では安全性の証明されない医療のことか。確かに保険承認された医療は有効性も安全性も保証されているはずである。しかし風邪薬や血圧降下剤のようなものは別として、がん等重病、難病の薬は有効性と安全性は二律背反である。抗がん剤はよく効くものほど正常な細胞を叩き、患者の免疫力を落とす。多くの薬害を起こしたのも重病、難病に有効な保険薬だった。

医療はリスクとベネフィットという女神の秤に掛けられている。がん患者は数パーセントの治療の有効性を賭けて死ぬかもしれない副作用に挑むこともある。保険診療でさえそうならば混合診療における有効性と安全性の問題は、患者と向き合った病院の倫理委員会、医師の自律的検討による決定を俟たねばならない。患者と医師のその選択と決定に国が介入する必要はまったくない。医療者が治験のような慎重さで混合診療に対すれば、どこかの病院や診療所で安全性も考慮されない医療が行われるという懸念はないのである。

 患者が不当に高い自由診療に誘導されるという説も怪しい治療が横行し医療の安全性が脅かされるという説も医療者の性悪説であり、それを前提にすれば医療の自由と自律を奪う事前規制へと進まざるを得ない。これは真っ当な考えであろうか。上昌広東大医科研教授は、混合診療が一般化すると国民皆保険が崩壊するという説は仮説に過ぎない、その妥当性はデータに基づきアカデミズムで議論すべきだ、データがなければ「壺を買わないと祟りが来るぞ」と脅す霊感商法に近いという(MRIC)。 

むしろ圧倒的多数の医療者の性善説を前提に医療に自由と自律を付与し、行政は厳格な事後検証を確立すべきである。いくら厳しい事前規制を行っても新薬では薬害をまったく防ぐことはできない。しかし、多くの薬害は事前規制だけ行われ、事後検証がまったくなされないことによって甚大化したものである。その方がはるかにリスクは高いのである。

 

3)医師会も患者会も口を開けば必要な医療はすべて保険で行われるべきといい、厚労省は必要な医療は例外的な先進医療(評価療養)を除いてすべて保険で認められていると千篇一律のようにいう。

それは本当に正しい主張なのだろうか。

 医師会の主張は公定価格で標準治療の保険診療が最も楽に儲かるからである。開業医の平均年収2700万円、世襲率9割以上の事実が端的に表している。患者会は必要な薬のドラッグ・ラグ解消を保険承認に求める。医師会と患者会を同列には論じられないが、高齢化や医療の高度化とともにどちらの主張も保険財政の増大につながるものである。現に医療費は毎年1兆円以上増加し続け、2010年は36.6兆円という巨額なものになった。

 一方、厚労省は医療費のとめどない増大に危惧を抱く。医療費に自由診療は含まれないため高度先進医療もできるだけ保険承認したくない。評価療養にもしたくない。それによって先進医療が実施され、評価が進んで保険承認の声が高まることさえイヤなのである。患者にとって希望する医療が保険承認されることは悲願だが、先進医療や新薬は非常に高く、保険財政を強烈に圧迫する。とくに日本のように保険対象が非常に広く、皆保険一辺倒の国では八方美人の保険承認などできるはずがない。

 重要なことはこの構図は日本だけの現象ではないということである。先進国は程度な差こそあるが、医療費の高騰と財政の悪化という難題に直面している。ただ多くの先進国はこの問題を先送りせず、抜本的な改革を実施している。日本は経済成長鈍化に加えて少子化により社会保険の負担能力が落ちる一方、高齢化と医療高度化により医療費は高騰するという最も厳しい状況にある。年金と同じく医療も若い現役世代が高齢の受益世代を支えるという賦課方式を取っていると見ていいが、それが限界に近づいている。

医療制度改革の方向を端的にいえば、厚生労働省は全国民の命に責任を持たなくていいということである。難病には人権という責任、感染病や流行病には公衆衛生という責任が伴うが、がんなどの慢性病は基本的に本人の問題であり、本人の意思と能力に負う部分があってもいい。すべての疾病に責任をとり、皆保険で解決しようとするから制度の破綻が近づく。日本の医師の技能は優れているが、勤務医の数や体制、病院経営、患者サービスといった医療制度が疲弊し、医療システムがガラパゴス化しているのは世界の常識となっている。

当局はこれまで国民皆保険という公的医療を社会福祉という建前で提供してきたが、それは持続不可能であることを素直に表明すべきである。その建前が歴史的呪縛となって改革への身動きを押さえつけている。今後も先進国の医療水準を維持するための医療制度改革は、受診時定額負担制のような姑息な手段ではなく、国民皆保険による公的医療と任意の自費負担であるビジネス医療の並立という世界の常識の導入しかないことを国民に本音で説明する必要がある。国民皆保険のドイツでは自費で名医を指名することが公認されているが皆保険崩壊と騒がれることはない。日本でも差額ベッドや出産・がん検診・不妊治療などの自費診療は医療機関の大きな収益源となっている。それらが保険診療と併用されることも少なくないが、公認ではないため萎縮医療となる。

 政府は日本経済再生のための内需の成長分野として農業や医療・介護や保育・教育そして自然再生エネルギーを挙げている。しかし経済成長のエンジンであるそれらは既得権益にぶらさがる組織団体を守る規制・制度でガンジガラメの分野なのである。規制・制度の緩和や撤廃に失敗すれば日本経済は窒息し、成長は止まってしまう。

 話がそれるが、政府の規制制度改革会議が混合診療の解禁を提言したとき、多くの知識人が民間委員をアメリカの手先とか保険会社の回し者のように非難したが、委員に身近に接した私にいわせると歪んだ見方である。かれらは一個人の信念として発言し、行動したと確信をもっていえる。その信念はがんや難病の患者に新しい、良い治療を受けさせたいという純粋な心情に基づいている。

 また混合診療が認められると、新薬の保険収載へのインセンティブが失われるという危惧もいわれるが、新薬のメーカーに確認したところ混合診療は関係ないそうである。新薬は公的に合理的に値付けされ、普及が進むことが望ましく、たとえば混合診療公認のフランスのメーカーもそれは同じとのことである。

さらに混合診療が認められると、保険収載された医療の保険が取り消されて自由診療になるという危惧もいわれる。これは危惧でなく既定事実である。混合診療が認められていない現在でも厚労省によって進められている。一例がリハビリの成果主義、日数制限制導入である。これは保険診療だったリハビリ治療に日数制限を設けてある程度の成果に達しない場合は保険を打ち切るというもので、以降は選定療養という自費診療になるというものである。厚労省によって望んでもいない混合診療が強制され、その結果患者は保険受給権を失う。一方、私は混合診療が国の政策に反するという理由で、希望する混合診療を選んだ結果保険受給権を失う。このダブルスタンダードが厚労省の本性である。混合診療が禁止されているから、保険診療は安泰だというのは甘いのである。

最後に混合診療が認められると、保険財政が悪化するという危惧について述べる。この認識は最高裁判決の根拠の一つになっているが、本当だろうか。結論からいうと混合診療は財源を減らさないのである。混合診療が認められていない現在は、保険診療のみで保険給付を受ける。しかし混合診療が認められても、その保険診療に全額自費の保険外診療が加わるだけで給付される保険は全く同じである。混合診療を公認すると財政負担が増えるというのは誤解なのである。このような錯誤を根拠に敗訴の判決を出すことは到底容認できない。

二人に一人ががんになり、少子高齢化が加速する現在、高度化する医療をすべて保険にしたら財政が持たないことは明白である。現在、支払い能力のある高齢者はもっと医療や健康に自己負担してもいいと考えているはずで、健全な社会を次世代に手渡すことは高齢世代の最大の責務である。

 

なお混合診療については、上昌広東大医科学研究所特任教授による委細を尽くした論考がある。http://www.kongoshinryo.net/pdf/ronkou.pdf

また最高裁の判決文は筆者のホームページhttp://www.kongoshinryo.net に掲載されている。

 

2011/11/08 記)