公的医療受給権の否定――控訴審判決

                        転移がん患者・混合診療裁判原告 清郷 伸人


1.判決の要旨

判決文は49ページにわたっているが、裁判所の判断は13ページほどである。その判断部分について略述する。判決は、まず平成189月以前の旧健康保険法(以下旧健保法)における特定療養費制度についての解釈を述べ、次に現行健保法における保険外併用療養費制度についての解釈を述べ、最後に混合診療において保険を給付しない国の解釈およびその解釈の基礎となる健保法に対する憲法判断を述べている。

特定療養費制度についての裁判所の解釈は、次のようなものである。@特定療養は保険医療機関ではない特定承認保険医療機関で行われるものだから、「療養の給付」は行われない。A特定療養費は、たとえば厚労大臣の認めた全額自費の先進医療に併用する基礎的診療部分(保険診療、すなわち療養の給付に該当するもの)に支給される。B厚労大臣の認めた先進医療について特定療養費を支給すると規定してあれば、たとえそれ以外の先進医療には支給しないという明文の規定がなくとも、特定療養費は支給されないと解すべき。以上により混合診療は原則として禁止されていると解するのが相当である。

保険外併用療養費制度についての解釈は、次の通りである。@厚労大臣の認めた先進医療は評価療養とされ、定められた保険医療機関でのみ保険診療と併用できる。A保険外併用療養費は、特定療養費と同じく基礎的診療部分に支給される。B厚労大臣の認めた先進医療について保険外併用療養費を支給すると規定しているから、それ以外の先進医療には支給されないと解すべきである。

憲法判断については、次のように述べている。憲法14条(平等権)違反に関して─保険の給付については、財源面や医療の安全性、有効性からその範囲を限定することは合理性があるから、違反とはいえない。憲法25条(生存権)違反に関して─健保法は患者の費用軽減を図る法である。医療の安全性、有効性の確保のために軽減の範囲を限定することは合理性があるから違反とはいえない。憲法29条(財産権)違反に関して─保険受給権は法によって付与された権利である。法の定めた範囲で認められるものであり、権利を奪ったものではないから財産権を侵害しておらず、違反ではない。

 

2.判決の感想

 私は法律の専門家ではないから、判決の緻密な評釈はできない。だから当事者としての感想を述べる。

 私はこの裁判で、混合診療において健康保険受給権が奪われることの法的根拠と違憲判断を求めたのであり、事件名は「健康保険受給権確認請求事件」となっている。

一審は、国の提出した書面や証拠を読み、法令を精査して保険受給権を奪う法的根拠はどこにも見当たらないと判断した。国の主張した保険診療と保険外診療の不可分一体論や特定療養費制度の反対解釈論を退けた。不可分一体論に対しては法令を誤って解釈しているとし、反対解釈論に対しては明文規定不在を補うほどの力はないとした。その判断の根拠を慮れば、健康保険の受給権を奪うような権力行為には、明確な法的規定が必要であり、あるべき法の姿からは現行の法令はほど遠く、改善の余地があるということではないか。

これに対して二審は、私の保険受給権を奪えるのかという問題に対し、現行の混合診療論から入っていった。そして、その法令を解釈するに際し、国の提出した書面や証拠を採用し、国の主張を全面的に認め、現行の混合診療を禁止している法制度にはもともと保険受給権は付与されていないという結論を導いた。その内容は、国が混合診療を禁止する理由としている不可分一体論については触れずに(一審を反駁せずに)、国がもう一つの理由としている反対解釈論を法的根拠として採用しているものである。すなわち保険外併用療養費の法令に費用を軽減する医療の範囲を列挙してあるから、それ以外は軽減する対象とならないことを読み取れというのである。健保法上で反対解釈が可能なのか、その当否を論ずべきなのに、それにはまったく触れていない。これが公的医療を受けるという最も基本的な国民の権利を奪うに足る法律といえるのであろうか。一審判決は法令をくまなく精査して、判断の根拠を詳しく述べて、権利を奪うには不十分な法律であることを明らかにしているのである。これを覆すのだから、一審判決に一言も触れないのは不自然で、片手落ちといわざるを得ず、一審判決の問題から逃げたというそしりを免れない。

判決は私には次のような姿に見えている。国民の社会保障を定めた法律の中に明文の規定がないことを利用して、行政が条文を強引に解釈して国民の重要な権利を制限、剥奪しているとする。苦しめられた国民がついに声を挙げ、国を訴えた。しかし、立法、行政を監視すべき司法は、行政の法解釈が正しく合理的かという本質的な検討をせず、既成事実化された法解釈に見直す余地はなく、現実に即すべきという理由で、国民はそれに黙って従えというのである。それなら裁判所など要らない。実際、控訴審では、法令の自然な解釈より法令は行政が執行している現実に即して解釈すべきだといわれたのである。

また二審は憲法判断において、国の解釈や健保法に違憲性は一切ないと述べているが、その理由は財源や医療の安全性、有効性の確保というものである。そういう合理的な政策目的、政策理由があれば、公的医療の受給権が否定されることも違憲でないというならば、合理的な目的や理由があったとされるらい予防法も国籍法も違憲ではないはずである。法制度の目的や理由だけで合憲を判断してはならない。裁判所が判断すべきものは、法制度の目的や理由とその法制度がもたらしている人間や社会の現実が憲法で容認できる範囲か否かである。私の裁判においては、自由に治療を選べずに死を待つ患者の惨状である。健保法がそのような違憲状態に国民を追い込んでいるなら、立法に瑕疵があるのである。司法は、国民の権利が法律によって規定されているか、法律や行政行為が憲法に叶っているかを判断するところである。問題があると判断されたならば、その解決は立法や行政が負うべきである。一審判決は、保険受給権剥奪には法的問題があると判断した。それを解決する混合診療問題は、政治に委ねられたのである。

また判決では、保険給付に範囲を限定することは合理性があり、違憲ではないとしているが、医療をいったん保険収載と規定したからには、いかにも合理性のありそうな理由をつけて、さらに恣意的に限定することは、国民皆保険の原則からも許されない。

一審で否定され、二審で触れていない不可分一体論は、混合診療が禁止されているという国の解釈の根本的な理由となっているものである。国の解釈によれば、厚労大臣に認められていない先進医療はなぜ保険診療と併用できないかというと、そういう先進医療は保険診療に悪影響を及ぼすから、その併用医療は不可分一体のものとして、全部に保険は給付されなくなるのである。したがって、この不可分一体論が否定されたままで、保険外併用療養費制度の法的根拠正当性や合憲性を措定することはできない。保険外併用療養とは、保険診療と安全で有効な保険外診療との併用の療養を指す。それらが一体として安全で有効だから療養費を支給するというのが健保法の趣旨である。不可分一体でないなら、保険外併用療養費制度など設けなくても、個別の保険診療と個別の保険外診療(その中には安全で有効なものも多い)があって、個別に費用を支払えばよいのである。また混合診療を禁止する解釈の合憲性について、国は次のように主張している。禁止は立法の裁量範囲内で、訳の分からぬ保険外診療は併用による一体化から排除して保険診療の安全性、有効性を担保するという合理的理由があるから憲法に違反しない。

以上のように、二審判決が不可分一体論を一審で否定されたままにしておいて、混合診療禁止の法的根拠を認めたことは、皮相であり、偏頗である。不可分一体論は、特定療養費制度の創設以来、この制度の拠って立つ基礎である。厚生官僚が受け継いできたこの制度の根幹をなす考え方である。したがって、不可分一体論が否定されたままでは、保険外併用療養費制度は、条文はともかく実質は崩壊するのである。反対解釈論は、保険外併用療養費制度が混合診療の例外的措置という解釈に基づくものだから、基盤である保険外併用療養費制度が崩れればその反対解釈も成り立たない。

 

3.公的医療受給権とは何か

ちょっと判決とは離れて、公的医療の受給権という社会保障の根本をなす法制度について考えてみる。混合診療を行うことで被保険者の保険診療への保険受給権を奪うことは、保険診療という公的医療を奪うことに等しい。(控訴審判決では、奪うのではなく、付与が限定されるとしているが、保険受給権は強制徴収された保険料の対価として得た強い権利であるから、国が奪っているのである)国民の社会保障の根幹ともいえる権利を一撃で問答無用に奪うことの正当性は、どこから出てくるのだろう。

 保険受給権を奪うことで混合診療を禁止する理由として、国や医療関係者や学者や患者団体が挙げるものを列挙する。医療受療の平等性、国民皆保険制度が壊れる、安全性・有効性の疑問な医療がはびこる、患者が不当な医療費を支払わされる、保険財政を圧迫する、医療の保険収載が滞る、他にもあるが、こんなところか。それらはほとんど杞憂であるか、対策の講じられるものか、誤解である。もしくは多少は発現するリスクである。

しかし、その程度の理由で、公的医療の受給権を奪っていいのだろうか。混合診療を解禁すると、難病・重病患者が世界の科学的先進医療を選び、受けられる、保険診療まで全額自費になる現状より合理的に、安価に受けられる、先進医療の臨床データが蓄積、公開でき、より質の高い医療へと進化する。こういうベネフィットの方がはるかに大きいと考えられないだろうか。現状でも隠れて、露見しないよう工夫して混合診療は行われている。それは危険だし、医療も進化しない。だが、何よりも重要なのは、解禁することによって国民が等しく公的医療を受けられる、その程度の理由で奪われなくなるということである。

「その程度の理由」を説明する。医療受療の平等性とは保険診療だけしか受けられない状態のことか。では高額な自由診療はなぜ存在するか。それは誰でも受けられる。保険医療機関で自由診療をやることが問題なのか。皮膚科、外科、産科、歯科では混合診療は普通に行われているし、公認された混合診療である選定療養は差額ベッドをはじめ厚労省自身が進んで悪用していると見られているリハビリの日数、回数制限など拡大する一方である。それなのに患者が命を懸けた治療を行うときだけ言いがかりをつける。国民皆保険制度も皆が保険診療だけを受けることを指すなら、もはや夢物語である。心配すべきは自由診療を受けにくくすることより、国民が等しく受けるべき保険診療さえも受けられない無保険者や貧者が激増していることではないか。

患者が不当な医療費を払わされるというが、公定価格ではない自由診療では事前の説明で価格も提示するのがサービス業の基本である。自由診療は結構高額だからイヤなら受けなければよい。混合診療を解禁すると自由診療が受けやすくなるというのは俗説である。要は、治療を受けている病院から自由診療の情報も知らされずに倒れるのか、知らされて自分が受けるか否かを選んで倒れるのか、どちらがいいかの問題である。命の沙汰も金次第になるというけれど、保険診療が等しく保障された上で、人々は少しでも良い治療を受けようと日ごろから預金や保険などで準備するのである。そのどこが問題なのか。最低保障に全員があわせて、少しでもハミ出てはならないのなら、それこそ全体主義ではないか。

安全性・有効性もサービス業の基本である情報提供の問題である。保険診療でも100%安全な手術や薬などない。今は患者も情報提供してもらって選んでいるのである。自由診療も同じである。医師の義務として法制化すればよい。保険財政が悪化するというのは、混合診療に関しては誤解である。保険外診療は全額自費で受けるのである。併用する保険診療分が増えるというが微々たるものである。第一、保険を受給するのは当然の権利である。保険収載が滞るというのも言いがかりに近い。悪い憶測にはキリがない。保険診療が自由診療化させられるというのまである。防ぐ手だては立法化も含めていくらでもある。

私は基本的に職業としての医師の性善説を信じているので、それで問題ないと考えるが、永年上下関係にあった医師と患者には溝があり、現在では訴訟等も念頭に不信感が募っている。したがって、混合診療の全面解禁には社会の合意は得られないと思うから、前提条件を設けて原則解禁すればよいと思う。たとえば@実施不可医療機関の規定A実施の際の義務規定(患者への十分な説明と同意)B違反に対する厳罰規定のような前提条件で、一定の技術水準の保険医療機関においては、主治医と患者に治療の選択権を認めて混合診療を可能にする。もちろんそのような医療機関が科学的根拠のない民間療法やインチキ療法などするはずはない。

 

4.今後の闘い

(1)上告

 以上に述べたように、控訴審判決は健保法の解釈も憲法判断も本質的な論点を外しており、単なる現状追認、行政の強引な解釈を無条件で認定するものとなっている。私は上告審で、法解釈にも憲法判断にも控訴審判決の疑義に対してさらに深い審理を求めていく。私の事件は、国民の公的医療受給という社会保障の根幹にかかわり、難病や重病で倒れる多くの人々につながるものである。今はこれ以上のことはいえない。

(2)法廷外闘争

 法廷外闘争などと大袈裟な言葉を使ったが、司法だけでは公的医療受給権保障の問題は解決しないということである。敗訴してから痛感するなど迂闊もいいところだが、混合診療につながる問題は四面楚歌で応援など一握りだから裁判しかないと決め込んでいたのである。確かに反対者は多い。とくに患者に近いはずの医師や薬剤師や看護師の団体は、第3章で述べたような不可思議な理由で、強く反対している。すなわち患者の公的医療受給権を国が奪うことを支持しているのである。しかし普通の市民は、この問題を初めて聞くと、おかしな制度という違和感を隠さない。NPO法人日本医療政策機構の世論調査では、難病や重病患者への混合診療に8割の国民が賛成している。この常識を持った市民感覚こそが重要なのである。

ボストン在住の社会学者細田満和子氏は社会規範という考え方を教えてくれた。世の中には法規範とともに社会規範という、法律には書かれていなくとも、人が社会を生きていくうえで、意識することなく身に着けている不可欠のものがあって、双方が絡み合いながら現実世界を作り上げているという考え方である。一昔前、公害病が企業責任と認定されずに甚大な被害をもたらしたこと、隔離や断種を正当化する「らい予防法」が最近まで存在したことなど法や行政のしてきたことは司法ではなく、まず社会から糾弾されたのである。法規範は、そういう社会規範の後を追いかけて整ったといえる。

このように社会規範とは決して難しい概念ではなく、人間社会に生きる人々が社会人として感じたり、一個人として身に着けている常識のようなものである。法以前の人間とか世間という次元のもので、一方の法律は権力を委任された者が国家や社会を維持していくために後から作ったものである。それは時代を経るにしたがって綻びたり、錆びたりする。それを社会規範とか常識という普遍性の高いものが是正していくのである。

私のいう法廷外闘争とは、その社会規範を信じて戦うことである。       

  2009/10/06