民主国家日本の安全保障

神奈川県藤沢市 清郷 伸人


1.     シビリアン・コントロール

自衛隊田母神前航空幕僚長が懸賞論文に発表した論文が問題となったことは記憶に新しい。世間も国会も騒いだが、問題となった点は二つある。その内容と手続きである。ここではその内容は問わない。理由は内容が論評するに値しないし、私が問題視するのは、手続きだからである。

 手続きの問題は次の2点に集約される。自衛隊という国家の軍事組織のトップクラスの現役幹部が、日本という国際社会の一員である国家の基本的見解に反する考えを公表したことと、この懸賞論文に多くの航空自衛隊員が組織的に応募したことである。

 国家の軍事組織の幹部が、国家の基本哲学に対し、賛成であれ反対であれ、個人的見解を明らかにすることは、少なくとも近代の民主国家では許されない。そのような行為は、国家の厳格な機能分担を損なうものとして決して許してはならないのが、世界の常識である。欧米などでは、軍人は議会で発言する場合でも、専門的、職業的発言に限定し、個人的発言は抑制するよう自らを律している。発言の冒頭は必ず「軍隊に予算を組んでいただき、感謝する」というものだと聞く。それなのに自衛隊のトップクラスの幹部が、どういう義理か知らないが、民間のホテル業者の懸賞論文などに、自分の組織や職業につながるほしいままな考えを公表し、その問題で国会に呼ばれても、ふてぶてしい居直りの態度で押し通すなど先進国では想像もできない。追求する議員も問題の本質がわかっていないから、的外れ、迫力不足が甚だしく、かえって自衛隊幹部の方が堂々と見えたという。

 一般に国家組織の軍人はもちろん官僚も、その属する国家に無私であらねばならぬ。近代国家の組織は隅々まで、憲法と法律で成り立っている。その憲法と法律を解釈し、あるいは変えることができるのは、国民から選ばれた議員だけである。さらにその解釈や立法の当否を判断できるのは、最高裁判所のみである。国家組織の一端を担う行政府は、それらに無条件に従わねばならぬ。今回のような歴史問題への解釈や見解は、行政のトップ組織である内閣(政府)でも行うことはできるが、その下部である行政組織は、軍事組織も含めて内閣の解釈や見解に無条件で従わねばならぬ。とくに軍隊という武力機能を持つ組織には、その原則が厳格に求められる。軍人は国家の安全保障装置の一つである軍事力を構成するパーツなのである。部品は口を利いてはならぬ。それができないなら公務員の地位を去ることである。これが近代民主国家のシビリアン・コントロールというものである。それは国家や軍隊というものは、国民を忘れ、自己目的化して暴走するものだという苦い歴史的教訓から、国民が得た果実なのである。

 次の問題、懸賞論文に多くの航空自衛隊員が組織的に応募したこともシビリアン・コントロールの原則からは、危険な兆候である。多くの自衛隊員が上記のようなシビリアン・コントロールの原則を知らないか、反発していると見られるからである。知らないというのも隊員への基本的な教育の欠如ということで、自衛隊組織の規律が疑われる話だが、反発ということなら、さらに根は深く、危険性は高い。

 多くの自衛隊員は、村山談話に代表される政府見解そして資材調達にからむ談合不正や守屋事務次官の腐敗行為など防衛省背広組さらに国益でなく小さな利害で動く政治家への不信や不満に駆られていると思う。シビリアン・コントロールは正しく指導できるシビリアンがいて始めて確立できるようなものである。しかし、それだからシビリアン・コントロールの規律を乱してもかまわないということにはならない。悪い(と思う)法でも法である以上従わねばならぬのが近代国家の鉄則である。

自衛隊員は、自らの組織の長や組織のためにあるのではなく、政府や背広組や政治家のためにはたらくのではなく、自らが属する国民と国土のために存在するのだという本質を一刻も忘れてはならない。今回問題となった幹部は、隊組織の中では尊敬され、大きな存在だったと聞く。それは日ごろからシビリアン・コントロールを踏み外して、小気味良い発言をしていたからであろう。そうでなければ自衛隊の海外派遣に対する裁判所の違憲判決に対し、「そんなの関係ねえ」という暴言は吐けない。この発言は世間に向けたものではない。自衛隊という自分の属する組織に向けた演説である。しかし自衛隊員は、この幹部のような自己組織完結型の思考に陥ってはならない。国際社会の一員である日本国家に属する組織ということを常に肝に銘じていなければならない。組織の予算は全面的に国民の税金から支給されているのである。その認識を失えば、シビリアン・コントロールを忌み嫌って、国家を滅ぼした旧日本軍の二の舞になりかねない。

 

2.     日本の安全保障体制

日本は独立国家として、憲法を持っている。憲法は法律、条約等の国家の行為のすべてを規定する最高規範である。その憲法に、国家の安全保障に関する基礎規定である第9条がある。短いものだから引用する。「1項 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。2項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」

この憲法のもとで、日本はかなり大きな戦力を持つ陸海空の自衛隊を保持している。しかし自衛隊は、憲法上、当然大きな制約を課せられている。自衛隊の制約に関する政府見解は次の通りである。@第9条は主権国家としての自衛権を否定するものではない。必要最小限の防衛力の保持を禁ずるものではない。A第9条2項は自衛権としての防衛力行使は国の交戦権とは別のものである。B集団的自衛権は国際法上、主権国家の当然の権利だが、日本は第9条で自国の防衛にとどまると規定されており、憲法上許されないと考える。すなわち自衛隊は、その名のとおり日本の防衛専用軍なのである。

一方、日本は国際連合に加盟しているが、そこには国連憲章という国際連合の憲法がある。国際連盟の脆弱な機能が第二次世界大戦を防げなかったという痛烈な反省から国連軍という武力を伴う国連決議を強制できる強い機能を持たせている。その国連憲章の要点は次の通りである。@すべての戦争は、違法行為である。A例外は、国家の自衛権の行使と国際連合によるものである。B国際紛争の解決は、「主権国家」としての「交戦権」によるのではなく、国際連合があたる。Cただし国際連合がその措置をとるまで、自衛権の行使は認める。Dその自衛権の行使は、国際連合に報告の義務がある。ここに掲げられた国連憲章の哲学は、日本国憲法と酷似しているといっていい。

次に多くの日本人が、日本の安全保障のほとんどを担保していると考えている日米安全保障条約がある。しかしそれは過大な期待である。その条約条文の第一条には、国際連合との両立を図り、その任務を強化するよう努力するとある。二国間条約であるが、国際連合が第一義的に存在する。そしてその制約のもと、両国の共通の危険に対処するべく行動することを宣言したのが日米安保条約である。米国が日本の危機を救ってくれるなどとはどこにも書かれていない。自国の危険にはまず自国の防衛軍が先頭に立つのである。同盟国はそれに協力するということである。ただ日本は憲法第9条がある以上、片翼飛行にならざるを得ないという前提での条約である。

 

3.     真の安全保障とは何か

 国家の安全保障の基本は、外交力である。外交力の武器は言葉である。しかし哲学と誠意のない言葉は弱く、むなしい。そのためにも政治家、外交官は国家哲学を磨き、鍛えなければならぬ。哲学のない付け焼刃の観測で、外国と渡り合えるほど外交は甘くない。

 かつての世界は安全保障といえば軍事力一辺倒だった。しかし国際法の確立した20世紀になってからは、軍事力を背景にした外交力が重要になってきた。第一次世界大戦や第二次世界大戦では、軍事力の優劣ではなく、外交力の差で敗戦国は破滅したといえる。敗戦国は、強大な軍事力を誇っていたが、外交で失敗した。いや外交を馬鹿にしたといった方がいいかもしれぬ。逆に外交で国際社会を味方につけた国家が勝ったのである。

 自衛隊幹部の懸賞論文の問題で、シビリアン・コントロールとは程遠い現状が明らかになった日本は、半世紀ほど前にどのようなプロセスで日本が破滅していったかをよく学んだ方がいい。二・二六事件などで軍人の独走が表面化し、誰も止められなくなり、自動機械のように戦争に突っ込んでいった。この日本の歩みが示すように、軍事力が弱くて攻め滅ぼされた国より、大きな軍事力をコントロールできず、内部崩壊、自壊して破滅する国がいかに多いかを近現代史は雄弁に物語っている。

 現代では、安全保障の基本は外交にあり、外交を導くものは国家哲学である。国家哲学から外交の基本原則が確立され、そこから当面の方針が示され、そのための外交戦略が打ち出されるという基本路線を持っていなければ、独立国家の外交などできるものではない。安全保障を米国頼み、自衛隊増強のみでやってきた日本の外交力のレベルは、残念ながらある意味で北朝鮮以下かもしれぬ。スイスのように自国軍など持たなくても毅然たる哲学による外交で存在価値を認められたり、ノルウェーのように哲学と誠意に裏打ちされた外交で、平和と国際社会に貢献し、尊敬されることも安全保障の向上につながるのである。