バラマキではない戸別農業所得補償

東京都渋谷区 岡部 俊雄


 食料・農業・農村政策は我が国の将来を決める、決して間違ってはいけない重要な政策であるが、専門的にはとても難解な理論と内容を持ち、また複雑な国際関係のルツボの中にある。

 都会に住むものは、食料についても蛇口をひねれば水が出るのと同じような感覚を持っている。蛇口の向こうには給排水配管、浄水場、取水場、ダム等巨大なシステムが有ることを忘れがちであるのと同様に、スーパーに並んだ食料にはその向こうに水のシステム以上に政治的、経済的バランスを含む巨大なシステムに支配されていることを忘れがちである。

(筆者のホームページtatunet.ddo.jp/okb/の冒頭文より。)

 

 我が国では食料の自給率向上とWTOFTAへ適切に対応するために政府・自民党も民主党も食料・農業・農村問題を重要な政策として取り上げている。

 しかし、両者の政策(手段)には大きな違いがある。政府・自民党は経営の規模拡大を奨励しており、大規模化された農地にのみ所得補償をするのに対し、民主党は全ての農家を対象に所得補償をすることにしている。一方、その民主党の政策をバラマキだとして非難している人々もいる。はたしてそうなのだろうか。

 戦前の口減らしを目的とした海外移住のようなことは再び繰り返したくない。

 そういう視点で我が国の農業政策の基本を考えてみよう。

 

1.農業の守護神関税障壁の崩壊

 我が国の農業は長い間いろいろな保護政策によって守られてきたが、その基本になっていたのは一種の鎖国政策である輸入関税と輸入数量制限である。

 国内の農産物価格は農家の生産経費と労働所得とをほぼまかないうる価格帯で維持されている。一方、安い価格の(国際価格の)輸入農産物には関税がかけられ、ほぼ国内の価格帯で流通されるようになっている。例えば現在コメ:490%、砂糖:270%、コンニャク:990%、リンゴ:17%等々の関税がかけられている。

 この輸入関税が障壁となり、国内農産物価格の下落が食い止められているお蔭で国内の農業生産が維持できているのである。

 この関税は輸出国の人々の負担であるが、国税の形で日本国の収入になっているので、めぐり巡ってその分なんらの形で国民の税負担が少なくなっている。一方、国民は関税で上乗せされた価格の農産物を購入しているので、その分消費支出が増えている。他方、国内農家は関税分上乗せされた価格で販売できるので、生産経費と生活に必要な労働所得を得ることができ、生産を維持できることになる。

 勿論、かつて米については輸入関税以前の問題として、食糧不足を乗り切るために、旧食管法により生産者米価、消費者米価、配給などという懐かしい制度で、生産も流通も完全に政府のコントロール下にあった。この制度は消費者への家計安定対策であると同時に、生産者への所得補償制度でもあり、当時はそれなりの効果を上げていたが、その後、食管会計の膨大な赤字や食管法の形骸化等もあって1995年に廃止された。

 これに対し、現在のWTO体制は関税のない自由貿易を目指しており、関税やその他による価格維持政策を禁止する方向で動いている。

 我が国の新しい農業政策は政府・与党、民主党を問わずこの方向での政策である。

 即ち、関税がなくなるので国内価格を維持できない(国際価格にまで低下する)。その上で農業の生産を維持するためには、生産コストと売価との逆ザヤを何らかの形で埋めなければならない。

 これが現在考えられ、一部実行に移されている農地所在地、作付面積、作物の種類等によって農家に直接支払われる所得補償制度である。欧米では以前から実施されている農業政策の基本であるが、我が国では初めてのことであり、多くの国民が違和感を持っているようだ。

 あまり知られていないが、我が国でも2000年から中山間地の農地(分かり易く言えば段々畑、棚田など)を対象に所得補償が実施されている。これはWTO対応政策の他に、国土・環境保全などを目的とした農業生産不利地域への農業生産維持政策である。

 今後の農業政策が、今までの関税による農業保護政策と基本的に違うところは、今までは国内農業の生産維持のための財源を価格維持による国民の消費支出で賄われていたのに対し、これからは価格が国際価格に下がる代わりに、生産維持を我々国民の税金でやろうということである。今までの政策も全ての農家が対象になっているので、これからの政策も全ての農家を対象にすることを原点にしなければならない。

 世界の趨勢が見えず、今までの価格維持政策に慣れきった人々が、新しい流れに戸惑いを覚え、或いは良く分からないまま、全ての農家を対象とする所得補償制度に、バラマキという言葉を使っているように思えてならない。

 

2.農業生産の基本は自作農

 農業生産と工業生産とはその基本が違う。工業製品はその生産拠点を最も効率的なところに自在に移動させることができる。WTOで制度化されたグローバリゼーションの世界ではそれがますます容易になってきている。

 しかし、農作物はその生産拠点である土地を移動することができない。その上、その生産条件の中で最も重要な気候も我々はコントロールすることができない。ハウス栽培や、工場内栽培などは高価に売れる極一部の作物に限られており、考慮に入れる対象にならない。

 このような条件下で生産される、生き物である農作物は工業製品の生産に比べ、その生産過程での観察力(SEE)と異常事態に対する対応力(DO)が比べ物にならないほど重要である。よく言われていることだが、「自分の子供を育てるような気持ちで育てる」と言う言葉は農業に最も適した言葉であり、工業製品の生産では全く考えられないことである。

 ソ連のコルフォーズやソフォーズが失敗し、我が国では戦後地主・小作農制から自作農制に大転換した。

 土作り、施肥、除草、潅漑、病害虫対策、台風対策、干ばつ対策どれをとってみても注意深い観察力と果敢な対応力とを必要としている。自作農ならではできないことだ。上司から監視され、マニュアル厳守で人間も機械の一部に組み込まれたような工業生産のシステムだけでは農業生産のシステムとしては不十分である。

 農業生産の基本は自作農であり、企業化や集団化は限られた応用動作であることを認識しなければならない。問題はその自作農をこれからどうするかということである。

 

3.農業に不向きな日本の地形

 我が国の地形は他国に比べて農業生産にとってはなはだ不向きである。国土の69%が中山間地であり、そこでの耕地面積が全耕地面積の42%も占めている。

 農業も他の産業と同様に大規模化されることは好ましいことだが、日本の国土事情をよく考慮しなければならない。

 平地で1ヘクタールの農地を10ヘクタールに広げれば間違いなく効率が上がり、コストは下がる。しかし、段々畑10枚を100枚にしたところで生産効率は殆ど変わらない。そういう農地が全農地の42%を占めている。

大規模化といっても小農地の集合体ではあまり意味がない。小規模農地、小規模農家を所得補償の対象から外すことは農地縮小の方向に向かうまことに危険な政策である。

 

4.農業企業化の限界

 農業に企業が参入することは好ましいことである。工業生産のノウハウの中に生物生産という新しい要素を組み入れて効率化するという新しい挑戦に経営者の手腕を期待したい。

 しかし、企業経営ではっきりしていることは利益率の低い事業には手を出さないということである。企業が中山間地の農業経営に直接手を出すとは思えない。

 更に、企業においては労働力は人件費としてコストに組み込まれるが、自作農の場合は本人達の労働力は労働所得という概念の中で考えられており、コストではない。企業では売上高から人件費や諸経費を差し引いて利益が上がらなければならないが、自作農では売上高から諸経費を差し引いて、自分達が生活できる所得(労働所得)が残れば農業を継続するのである。

 農産物の関税による価格維持政策を廃止すれば当然農家の所得は減少する。それでも農業を継続してもらえるようにしようというのが戸別農業所得補償制度であり、元々バラマキなどであろうはずがない。

 これから農業に若者を呼び戻し、活力に満ちた二世代、三世代、或いは後継者による自作農を経営するには、分配・休日・住居などで合理的な対応が求められるが、大規模農家のみを対象とする所得補償は小規模農家を切り捨て、耕地面積を縮小させる危険な政策と言わざるを得ない。

 

5.集団営農の限界

 大規模農家の他に集団営農で所定の耕地面積に達すれば所得補償の対象とする制度も本年産から実施に移されている。

 元々日本の農業の特徴は集落によって成り立っていることである。個々の農地はその所有者を中心に管理されるが、その農地経営に必要なインフラは集落の共同作業で構築し、維持されてきた。先に述べた現在実施中の中山間地への所得補償は集落機能の維持強化が前提になっており、日本の国土に合致した適切な政策である。

 しかし、集団営農を対象とした所得補償制度は各農家が自分達の農地を持ち寄り、経営帳簿を一つにし、各農家はその集団の一労務者として労働するというものである。このやり方は二つの問題を抱えている。

 一つは、労働に従事する各農家が、従来通りの農作業へのモチベーションを維持できるかどうかという問題である。

自作農の場合、例えばその日の予定の農作業が終わって時間があれば、更に畑を一回りしてこようかというモチベーションが働き、その時に新たな発見があれば、速やかに対処することも可能になる。

それが集団営農の場合、これは企業でも同じことであるが、予定の作業が終われば休憩室に入って、或いは自宅に帰ってテレビでも見ようかということになるだろう。

この違いが生物生産においては決定的な差になって現れてくる。ソ連のコルフォーズやソフォーズの失敗を良く研究しなければならない。

二つ目は、日本の農地の中には集団を組み、所定の面積にしたくてもできないところが沢山あるということだ。何キロメートルも離れたところと集団になっても何の意味もない。集団を組めず、所定の面積に達しない農家には所得補償をしないということになれば、それは農業を止めよということと同じで、明らかに農地を縮小させることになる。

集団営農は理想郷の姿であり、生身の人間の気持ちや、農地の実情を軽視した制度のように思えてならない。或いは官僚の力で無理やりその制度の中に農家を押し込めようとしているのかもしれない。そうであれば、これは農家の悲劇であり、日本農業の破壊につながってしまう。

 

6.日本農業のあるべき方向

 では日本の農業政策はどういう方向を目指すべきだろうか。

 第一は、既にそういう方向に向かっているが、WTOの流れに沿って価格維持政策から所得補償政策に早急に転換することである。このことにより現在農産物の関税がブレーキになって難航している各国とのFTA交渉を円滑に進めることもできる。

 第二は、世界的人口増加に対応するため、食料の自給率を向上させることである。世界的に食料が不足した時、食料生産国は自国民の食料確保を優先するのは当然のことである。日本の食料が不足した時、戦前のように口減らしのための食料生産国への移住を国民が覚悟しない限り、所定のレベルまで食料自給率を向上させなければならない。このことは如何にグローバリゼーションの世界になったといっても、国家という基礎単位がある限り、戦力による国防以上に重要な国防である。

 第三は、第一、第二の目的達成のための手段である。

 何よりも大切なことは耕地を増やすことである。そのためには耕作すること、即ち農業に多くの人が意欲を持ち、魅力を感じるようにすることである。耕作することで十分な所得が得られるようにすることである。

 耕作するに当たってはいろいろな経営形態が考えられるから、農家には多様な選択肢を与えなければならない。自作農よし、集団営農よし、企業よし、専業よし、兼業よしである。

 更に、農業従事者がその土地で快適な生活を送ることができるよう地方分権や道州制実現のスピードを上げ、地方の魅力を創造し、若者のIターン、Uターンを進めなければならない。

 また、農地を耕作地として使用する限り、できるだけ農地を流動化させなければならない。耕作を放棄した農地は原則として国に無償で返上し、改めて国から別の耕作者に無償で与え、耕作している限り耕作者の所有にするというのも一案である。

 要するに少しでも多くの耕作地を作ることである。そのためには生産コストと売価とが逆ザヤである限り、また、農家の生活を維持する必要がある限り、経営の形態に関わらず全ての生産者にWTOで認められている所得補償をすることが必須である。これをバラマキだという人は、食料・農業政策が国家の最重要政策であることが理解できず、食料はスーパーに行けば何時でも手に入り、カネさえあれば何でも買えるという幻想を持っている人だというほかないだろう。

 

<参考> 一農家の声

 まことにタイムリーに108日の朝日新聞「声」の欄に、一農家の声が掲載されたので原文のまま紹介します。

抜本策立てて農業守って  (農業 武藤ゆき 山梨県笛吹市 79歳)

 福田内閣に望みたいことはいろいろありますが、食糧自給率を上げることが急務であると思います。しかし、若い人たちは勤めに出て、年寄りが農業を守っているのが現状です。

 私は、息子達と桃やブドウ、柿を栽培しています。家族4人が総出で働き、勤め人1人分の給料がやっとです。肥料をはじめ消毒、苗、機械などと出費ばかりです。農業だけでは食べていけません。10アールのプラム畑をやめ、アパートにしてしのいでいます。

 消費のニーズに合った品種を作っても収入増になりません。果実の色や形、糖度という品質は厳しく選別されます。安い輸入品が出回り、加工用

に引き取ってもらう量は激減しました。私達は採算が合わなくても、誇りを持って農業を続けています。

 昔は「農は国のもとなり」と言ったものですが、高齢化とともに耕作放棄地が増えています。そして、都市と農村の格差は開く一方です。取り返しがつかなくなる前に、所得補償など抜本的な対策を立てていただきたいと思います。