憲法を改正して限られた集団的自衛権行使を

東京都渋谷区 岡部 俊雄


 生活者通信6月号で平岡昭三氏から問題提起のあった集団的自衛権について私の考えを述べます。

我が家の家訓

 家族ぐるみで親しく付き合っているお宅の娘さんが、自分の目の前で暴漢に襲われた時、「我が家の家訓では、自分が襲われた時以外はいかなる状況であっても手出しをしてはならぬことになっている。」と、傍観を決め付けたとき、はたして世間は納得するだろうか。

 なるほど一つの生き方ではあるし、間違いなくその男は安全である。しかし、そういう男を世間はどの程度大事な男として、また、自分達の仲間として扱ってくれるだろうか。

 これが現在我が国で議論の対象となっている集団的自衛権行使の問題である。

 集団的自衛権は国連憲章第51条で個別的自衛権と共に全ての加盟国に認められている権利であり、日米安保条約の前文でもそのことを確認している。

 しかし、我が国には憲法第9条という世界中で知る人のみが知る制約があり、その制約で我が国は集団的自衛権を行使できないと解釈している。知る人のみぞ知る我が家の家訓なのである。

この家訓がいつまで世間に通用するか

 日米安保条約は、日本にそういう家訓があることを承知の上で、日米の共同防衛で、日本が集団的自衛権を行使しない代わりに、日本国内に米軍の基地を提供し、領海外の軍事行動は全て米軍にお任せする、という仕組みになっている。

 従って、日米安保条約は完全な集団的自衛権を自動的に行使することになっている北大西洋条約機構(NATO)などとは全く違う条約である。

 そこで冒頭の娘さんが目の前で暴漢に襲われた時の話になる訳である。いろいろな考え方があると思うが、私はごく常識的な社会の一員として、傍観などしたくないし、むしろ暴漢に一撃を加えたいと思う。そのために、家訓が制約になるのなら家訓を変えればよいと思う。

 憲法の前文でも、2項では「・・・人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するものであって、・・・」とあり、3項では「・・・いずれの国家も、自国のことのみに専心して他国を無視してはならないのであって、・・・」と述べられている。当たり前の精神であるが、3項の精神は十分な形で条文に反映されていない。

 そこに極端な形で、言い換えれば極限の理想の形で9条が出来上がっているわけであるが、これは、日本の軍事的脅威が二度と再現されないように、どんな形でもいいから封じ込めておく、という米国の強い意志があったからだと言われている。

 この9条はその後拡大解釈されながら今日まで来ている訳であるが、この9条の存在と、日米安保条約の存在のおかげで、世界が目を見張る我が国の戦後復興と、経済成長があった訳である。

 しかし、我が国が世界第2位の経済大国になってもなお暴漢に襲われた冒頭の娘さんを、家訓だからといって傍観していることを、世界が許すだろうか。

 冷戦が終焉した今日では、NATOのような集団的自衛権の行使を日米安保条約で求める必要は全くないし、国民も認めない。ごく限られた集団的自衛権の行使に止めるべきだと思う。

 目の前で暴漢に襲われている冒頭の娘さんを救うのが目的であって、暴漢を抹殺するのが目的ではないのだから。

家訓を変えるか、どう変えるか

 次に、このごく限られた集団的自衛権の行使を、更なる憲法の拡大解釈でやるのか、それとも憲法を改正してからにするのかということであるが、憲法の拡大解釈はもはや限界を超えており、これ以上の拡大解釈は危険である。

 戦前、戦中に悪用された「統帥権の独立」という問題も、軍が勝手に解釈し、悪用した典型的な例だと思う。

 そもそも「統帥権の独立」は、帝国憲法第11条に「天皇は陸海軍を統帥す」と定められていることに基づいている。この憲法の構造とその規定そのものに問題があることはいうまでもないが、この規定を真摯に受け止めれば、軍は天皇の命令によって動くことになる。しかし、実際は全く違っていた。天皇が表立って指示・命令をしない慣例になっていることを悪用して、「こうすることが天皇のお気持ちである」との勝手な解釈をし、勝手に動き、内閣がそれに異をとなえると、それは「統帥権の侵犯である」と耳も貸さなかったのである。

 勝手な解釈ができるということはこれ程危険なことである。

 ごく限られた集団的自衛権であっても、それを行使できるようにするためには、憲法を改正し、そのことをはっきり明記してからにするべきである。

家訓を変えた後の我が家の安全性

 もう一つは、ごく限られたものであっても集団的自衛権を行使することによって、我が国の安全が脅かされるのではないか、ということである。

 NATOのように完全な集団的自衛権を行使する場合は、自国と同盟国との間に安全に関して殆ど差がない。

 一方、日米安保条約は憲法の規定に従うことを前提としており、ごく限られた集団的自衛権を行使できるように憲法が改正されれば、その範囲でしか行使できない。

 勿論、軍事的行動に「安全」などという言葉はあり得ない。あの小泉前首相ですらイラクに派遣した自衛隊のいるところは「非戦闘地域である」とは言ったが、「安全地帯である」とは一言も言っていない。

 ひとたび戦闘が始まれば、前線であろうが兵站基地であろうが安全な所などどこにも無い。ごく限られたものであっても集団的自衛権を行使すれば、それまで我が国に向けられてこなかった危険が、行使の内容によっては新たに向けられてくる可能性がある。

 それを承知の上でごく限られた集団的自衛権を行使できるようにしようという考えである。

 

我が家の周辺の脅威

 最後に我が国を取り巻く各国の脅威であるが、普通に考えて北朝鮮と中国、それとテロのみで、それ以外は殆ど考えられない。

 私が日頃主張していることは、「世界中の国が民主主義国家になれば地球から戦争はなくなる。」ということである。北朝鮮、中国はいずれも民主主義国家ではなく、私の持論からすれば軍事的脅威のある国である。

 しかし、中国は、私が得ている情報では、社会主義というイディオロギーは既に捨て去っており、頭の中では現在の自由主義国家、民主主義国家が抱えている諸問題を排除した新自由主義国家、新民主主義国家を模索しているようだ。それが何だか未だ分からないし、勿論彼らも分かっていない。スウェーデンに近いやり方を検討しているのではないか、という説もある。

 そういう方向に向かっている国は大きな脅威ではない。ごく限られた集団的自衛権の行使で、それが理不尽なものでなければ、新たに先方から仕掛けてくることは無いと思う。勿論しっかりした外交ルートを整えておくことが大前提である。

 問題は北朝鮮である。極貧国家と言われながらも、事実上の軍事政権の国家である。ミサイルを持っているし、高度の技術を要する小型核兵器も持っているようだ。

 当面我が国の脅威は北朝鮮ということになる訳だが、この北朝鮮はごく限られた集団的自衛権の行使という問題に関係なく脅威である。しかし、米軍が北朝鮮に対して動く時は、テポドンが米国に打ち込まれた時ぐらいしか現在は考えられない。テポドン発射地点への先制攻撃論も聞こえてくるが、技術的に不可能でナンセンスだ。やるなら、ある日突然、あらゆる攻撃手段を使って国家を消滅させるしかない。そんなことを今米国がやるはずがない。とすれば、北朝鮮も我が国がごく限られた集団的自衛権を行使できるようにしたからといって、今の脅威が更に高まるとは思えない。

 残るのはテロである。これは真にやっかいである。どこから現れるか分からず、自爆を前提としておれば、如何なる抑止力も役に立たない。これこそテロ支援国家以外の全ての国が集団的自衛権を行使し、共同して防御しなければならない。

 現在のテロは宗教的色彩を帯び、米国の覇権主義に強く抵抗しているように見える。そうであれば身の安全を守るためには米国から距離を置いておいた方がよいことになる。

 しかし、身の安全のみを考え、憲法前文にある「自国のことのみに専心して他国を無視」して、世間から孤立してよいのであろうか。そういう国が国連の安保理常任理事国になりたいというのも世界の七不思議の一つである。

 これからの我が国は、米国の傘の下でひたすら利益と安全を求めていた時代から脱皮し、責任ある大人として世界の中で自立しなければならない。

 当然そこには大人としてのリスクを伴う。そのリスクを負ってこそ初めて本当の意味での大人の世界に入ったことになるのではないだろうか。