道徳教育、是か非か?

東京都文京区 松井 孝司

政府の教育再生会議第1分科会は、「道徳の時間」を国語、算数などと同格の正式教科とする方針を打ち出した。一方、文部科学相の諮問機関・中央教育審議会の山崎正和会長は、倫理教育や道徳教育について「学校制度の中でやるのは無理がある。道徳教育は、いらない」と否定的な見解を示している。

「道徳」は老子の「道徳経」に基づく言葉で、善悪、正邪を判断し、正義を実行するための規範であり、法律とは異なり、宗教のように個々人の内面的原理として働くもので、人間相互の関係を規定するものとされている。

宗教のように個々人の内面的原理として働く道徳ならば、山崎会長の言う通りだろう。

「道」を究め、「徳」を積むことは君子の義務であり、庶民に求められる義務ではなかった。天下を治めるため、天命を授かるために必要な権力者の義務であった。「道」に無知で、「徳」の無い人間が権力を握ると天下は乱れ、社会は荒廃するからである。

現代社会は主権在民となり、現代の権力者は一般国民である。したがって、一般国民も道徳とは無縁ではいられなくなったのだ。

社会の荒廃はまさに一般国民の道徳の欠如を示すものである。権力者が「道理」に無知で、「徳」を失いつつあるのだ。

道徳教育を実践する場合、問題となるのは価値観の多様化である。正義の内容については、儒教、仏教、キリスト教、イスラム教だけではなく、無宗教を自認する無数の考え方が、世界のグローバル化の進行とともに押し寄せ、価値観に優劣をつけることを難しくしている。

道徳は宗教の相違を超え、世界のグローバル化に応えられる普遍性をもつものでなければならない。公教育の道徳に求められるものは個人、国家を超える普遍性である。

公教育が担う道徳の内容は、その普遍性を具体化するものでなくてはならないのだ。

グローバル化する社会に普遍的な秩序が求められるからこそ公教育に道徳教育が必要とされるのである。

そんな普遍性のある「道徳」は存在するのだろうか?

参考になるのが、フランスの公教育における政教分離の歴史である。

フランスの多くの小中学校には「自由、平等、博愛」の標語が掲げられているという。

1848年の憲法において、この標語は共和国の原理と定義されたが、第2帝政期には見向きもされず、第3共和制になってやっと定着した。教会が神の存在なくして道徳は成り立たないと主張することに対して、神とは無関係に普遍的な道徳が存在することを認めさせるにはジュール・フェリーの思想的貢献を必要とした。

1880年7月14日の革命記念日に、この標語は公共建造物に掲げられるようになり、第3共和制になって子供に教育すべき「普遍的な道徳」を確立したのである。

1883年11月17日ジュール・フェリーは公教育大臣の名において「小学校教師への書簡」を発表し、「個人的で自由、多様であるべき信仰の領域と、あらゆる人に共通かつ不可欠であるべき知識の領域を分ける」ことを主張し、公教育を権利と義務の概念により確立し、権利と義務の内容は何人も知らずにいることが許されないものとされた。

宗教教育は家庭が、「権利と義務」に関わる教育は公教育が担うことになったのである。

宗教に依存する道徳は個人の救済しか考えないが、公教育における道徳は実証できる真理から生まれ、全人類を対象とする普遍性をもたせることが求められるのである。

殺人、窃盗、虚言、強姦などの行為が「悪」とされるのは宗教の如何を問わず、人種、国籍の相違を超えて普遍性をもつ。

宗教や価値観に普遍性はなくても、道徳教育には普遍性を求めることができるのだ。実証的研究により、道徳の規範をつくる普遍的な原理の存在を明らかにすることも不可能ではないだろう。