生活者主権の会生活者通信2001年04月号/10頁..........作成:2001年05月03日/杉原健児


人類の英知が問われる世紀
〜繁栄か、破滅か、21世紀の4大テーマ〜(1)

大田区 江川 朗

 21世紀という百年間を詳細に予測することは誰に
も不可能だろう。しかし、マクロのレベルで考えれ
ば、予測は必ずしも難しいことではないかもしれな
い。私は、そうした視点で考えて、21世紀の最大の
課題は「人類の英知が問われる世紀」に集約できる
と思う。                                      
  さまざまな課題に対して、人類ないし人間の英知
が勝利すれば、21世紀は、人類が、そして世界がか
つてない幸福を享受する世紀となるだろう。      
  しかし人類の英知が、個人や集団のエゴイズムや
暴力に敗北すれば、21世紀の世界は、かつて例を見
ない惨憺たる時代となるかもしれない。          
  マクロ的に見て、人類の英知が問われる世界的テ
ーマは、次の4つに集約できるのではないかと考え
ている。                                      
  これは『江川仮説』とでもいうべき私の考え方な
ので、反論したり、つけ加えたり、否定されること
も自由であるが、願わくは「人類の幸福」という視
点を見失わない論議を期待するものである。      
  テーマの第1は「民主主義の限界とその克服」、
第2は「資本主義の限界とその克服」、第3は「科
学技術の無政府化とその克服」、そして第4のテー
マは「民族と宗教の暴走化とその克服」である。  
  21世紀の世界、そして日本に関わる困難な課題も、
ほとんどはこの4つのテーマにそのルーツを持って
いると考えられるので、以下順を追って説明しよう。
                                              

【1.民主主義の限界とその克服】

現在、地球上には民主主義を信奉ないし標榜して いる国家ないし民族が圧倒的に多い。独裁国や共産 国家と考えられる国の指導者ですら、それぞれの立 場から、民主主義を彼らなりに口にしている状況で ある。私自身はそうしたニセ民主主義は認めたくな いと考えているのだが、いずれにしても少なくとも 世界の主流を占める資本主義諸国は、民主主義を国 家の成立する基盤として位置づけているのである。 民主主義は、政治だけでなく、行政、教育、社会 生活、起業経営等々、社会のメカニズムの全てにつ いての原則ないし規範として認められている。 その原則は、 (1)関係者の全員参加、 (2)多数決 …という原則である。モノゴトを決める場合のルー ルとして関係者の全員が発言し、参加し、決定する 権利を認められていることであり、その決定は多数 決原理によって行われる。 この民主主義の原理、原則は、私は人類が『発明』 した最高の産物ではないかと評価しているのである が、問題なのは、その原理、原則が少なくとも21世 紀において、実際の運用面の多くの場面で形骸化し、 限界化しているという事実である。 民主主義の形骸化は、わが国の例では国会の形式 的多数決による運営や、ワンマン社長の前での役員 会の決定等を見れば明白であろう。わが国の選挙制 度では、有権者の全員参加が権利であり、かつ義務 であるはずなのだが、実際には投票率が40%を割る ことも地方選挙では稀ではなく、極端な首長選では 20%台さえある。立候補者が多数の場合、40%の投 票者のうちの20〜30%の獲得者が当選し、結果とし て 100%の意志を代表することになる。40%の投票 率のうち、仮に30%を獲得したとしても有権者の僅 か12%の票で選ばれたに過ぎないのである。当選者 に対する「反対票」は投票者の70%、つまり有権者 の28%であり、さらに棄権という名の意志表示者60 %を加えると、計88%が少なくとも当選者を積極的 には支持していないというのが、現在の民主主義選 挙制度の実体なのである。 棄権者のかなりの部分を「無党派層」などと呼ん でいるが、彼ら、彼女らは自分たちへの直接的利害 か、または人気投票ないしファッション型選挙、ム ード型選挙にその姿を現すだけで、本当の民主主義 者としての積極的意志を持っている人種とは私には とても考えられないのである。 こうした選挙の繰り返しが、政治の質、政治家の 質を際限なく低下させ、業界の利権の代弁者や地域 エゴの代弁者どもが、国および地方の議会を占拠し、 利益誘導、党利党略型の政治行動を増幅し続けてい る。そして、こうした政治家と密着ないし結託した 官僚、経営者、さらには一部の労組や宗教団体の行 動が、教育の荒廃化と相まって青少年の政治離れ、 無気力化、弱いものいじめという形での社会への反 抗といった形で蓄積化され続けている。 欧州諸国などでは、一定の投票率ないし得票率以 下では選挙を無効化したり、当選を認定しないとい った「歯止め」をかけている例を耳にするが、これ らは見方によっては、現在の民主主義の限界を示し ていると考えることができよう。 日本の制度の中で、私が最も民主主義を形骸化し ている例として考えるのは、例の最高裁判事の「信 任投票」である。 大部分の選挙民にとって見たことも聞いたことも ない判事の名をズラリと並べ、不信任者にはX印を つけろという。私は、誰がこんな馬鹿げたことを考 え、実行を決めたのか知らないが、×印が少ない判 事は「国民に信任された」とみなすのだそうだ。全 く同じ方法で、逆に信任する判事にのみ○印をつけ させて、○印が過半数にならない判事は不信任とみ なすということにしてみたら、最高裁判事は選挙の 度に、ほぼ全員が不信任になってしまうかもしれな い。 政治、行政以外にも、民主主義が形骸化し、限界 化している現象が際限なく見られるのが、20世紀末 の世界の姿である。私が恐れるのは、その結果、21 世紀には「民主主義は限界だ」という風潮が世界に 広がり、何らか別の原理を求める行動が動きだすの ではないかということである。多数決原理を、その 権利と義務を負っている多数者が、自ら限界と認め ることは矛盾である。そのときその解決策として何 が登場してくるのだろうか。それは新しい衣をまと った独裁主義であり、ニュー・ファシズムである可 能性が高いと私は危惧している。そして、それこそ が、最も恐るべき民主主義の限界現象なのである。 21世紀の人類の課題は、限界が見え始めた民主主 義を、英知と努力によって形骸化から救い、本来の 姿に立ち戻らせるか、または極めて至難で、絶望的 かもしれないが、民主主義に代わるより優れた社会 原理を「発明」することができるかである。もしこ のことに失敗することがあれば、21世紀が希望の世 紀になることはあり得ないだろうと私は考えている。 (「海洋」2001.1.1 No820号より転載・つづく)

生活者主権の会生活者通信2001年04月号/09頁