生活者主権の会生活者通信2000年01月号/07頁..........作成:1999年12月30日/杉原健児

1942年・東チモールの難民 (2)

北区  角幡春雄(治田桂四郎の友人)

 半年ほどして、大学はクリスマスをはさむ休みに入った。休暇を利用して帰国した三十日ほどのあいだに、私は東チモールの戦中の経過 を調べてみた。
 日本軍がポルトガル領東チモールに侵攻したのは1942(昭和17)年2月である。前年の12月に東チモールには豪・蘭軍が侵入していた。 日本領事、在留邦人が検束されていたのを解放・保護するというのが名分であったが、蘭印(インドネシア)占領に気をよくした軍が、 すぐさきのオーストラリアに睨みをきかしながら、同時に機あらばという心組みであったらしい。日本軍は、占領と同時に無電台を抑えて、 政庁とポルトガル本国間の通信を断絶させた。
 東チモールを、耳と口を失った太平洋上の孤島にしたうえで、軍は、総督マヌエル・ドゥ・アプレウ・フェレイラ・ドゥ・カルヴァリョ の自由を拘束し、政庁関係者とポルトガル系民間人を収容地域に移した。その間の軍事行動と、占領期間中に、東チモールで失われた人命は 四万人にのぼると推定されている。この推定ははなはだ不確かなものだが、カルロスの父がそのひとりであったことはまちがいない。
 中立国領土にたいする軍の侵犯は当然、ポルトガルの反撥を招いた。
 オーストラリアに脱出して難を避けたポルトガル系市民―そのなかに、カルロス母子もいたのだが、彼らが本国に送った通信は、 次つぎに新聞にのるなどして、リスボン市民の日本に対する非難は、日増しに激昂してきた。当時リスボンにいた森嶋守人公使はそのように 書いている。
 軍の無法な侵攻に当惑したのは、日本、ポルトガル外交関係者の両方ともが同じであった。
 ポルトガルの首相はアントニオ・ドゥ・オリベイラ・サラザールであった。1928年以来政権を牛耳って独自の独裁体制をつくりあげ、 第二次大戦後も世界輿論を敵にまわして、「世界最古にして最後に残った植民地主義国家」を導いたひとである。当時ももちろん、 心情的にはファシズムの側にあったが、もともと彼は謹厳な、そして清廉な財政家であった。そのころ、ポルトガルの国庫収入にとって 大事な役割を占めていたのはタングステンであった。この稀有金属は戦車や艦船につかう鋼板の強度や砲弾の破壊力を増すのに不可欠な 戦争資材であったから、ポルトガルはこれを連合国側にもドイツにも売っていた。イギリスから圧力がかかってドイツへの輸出を断念 しなければならない事態に追込まれたとき、彼は突如、国内のタングステン鉱山を全部閉鎖してしまった。ドイツだけでなく、イギリスへの 提供も絶ったのである。彼はカトリック教徒として独特の平和哲学をもつ、剛直な中立主義者であり現実主義政治家でもあった。
 このときも、日本軍に対する輿論の激しさに配慮をしめしながらも、サラザール首相は冷徹な現実主義者としての計算をした。東チモール の奪回を急ぐためには米軍の援助を必要とする。アメリカの軍事力をかりることは、しかし戦後、ポルトガルの東チモール領有を 危うくする。マカオも似たような事情におとしいれることになる。彼にとっては、前に進むことも後ろに退くことも賢明ではなかった。
 ポルトガルまで敵対国に追いやることを怖れた日本は、サラザールの計算を読んで、一方で軍の無分別を抑制しながら、解決の引きのばし を策することにした。
 なんどか、国交断絶を覚悟しなければならないようなきわどい局面もあったが、やがて両者のあいだに駆引きが成立する。両方ともに、 とりあえずの口実にはなる延引策を見出だしたのである。ポルトガルが東チモールの現状調査を提案し、日本側がこの提案を受け入れた。 1944(昭和19)年になっていた。
 3月、マカオ総督府秘書長シルバ・イ・コスタ砲兵大尉が首府ディリに派遣された。
 東京の外交史料館所蔵の「大東亜戦争関係一件、太平洋印度洋所在中立国諸島問題―チモール島問題」の綴りのなかに、コスタ大尉接遇 の状況についての詳しい記録がある。
 日本側からコスタ大尉に同行したのは、外務省から政務二課長、三等書記官、大東亜省から事務官一名、陸軍省から中佐一名。その姓名 もわかるが、綴りのなかに、面白い一通の電報を私は見出だした。
 「チモール視察員一行のため角砂糖300ヶ入手方御手配おき請う」
 外務省政務局長名義で、台湾総督府外事部長あてに送られた電報である。勝手に侵略しておいて、調査員のコスタ大尉のご機嫌を 損なわないために、コーヒーのための角砂糖300個。それも台湾にしかなかったのか。戦争と外交の裏側で、こんな電報が大真面目 にやりとりされていたのかと、思わず私は、噴きだした。鉛筆がころがってもひとの耳をそばだてそうな閲覧室のなかで、私は失笑を こらえるのにがまんしかねて手洗いに脱出しなければならなかった。
 むろん侵略は角砂糖300個でどうにかなるというものではあり得なかった。コスタ大尉の報告がどうのように扱われたかは明らかでない が、森嶋公使はその半年後に、次のような電報を本省に送ることになる。
 「今後三ヵ月以内にポルトガルは対日断交に至るべき気配」
 英蘭同盟を口実として英国か米国をそそのかしてチモール奪回に入る(ことになる)を断念する、というサラザール首相の発言を伝えた うえで「(日本軍の)撤兵か、国交断絶かー方針を!」と請訓している。
 日本軍の東チモール占領問題は、そのまま解決をみることなく、日本の敗戦で翌年8月、ご破算になった。以来、私達の意識からチモール は消えていたことになる。情
                 (つづく)

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