生活者主権の会生活者通信1999年04月号/04頁

                現 在 の 危 機  (1) 

                       練馬区 小 野 寺  光 (FAX 03-3976-5437)

 私達の周辺を広く周到に見渡すと、政治的、社会       この教示的な集団の存在は、最も危険なものでは 的、宗教的な苦悩が数多く存在しております。        ないでしょうか。  私達の心の全体も、混乱しているようにさえ思え       なぜなら、それが宗教的なものであっても、また、 ます。                          左派や右派のようなものいであっても、いずれも、  グローバルな意味においては、全ての政治や宗教      人間ではなく方式が重要なものになってしまいがち 等の指導者達も、今日まで常に私達を裏切ってきた      であることに問題があると考えるからであります。 のではないかとさえ思えてなりません。            方式が重要になるということは、その哲学や観念  また、あらゆる教示的書物も、今日ではその本来      が重要になるということなので、その場合、人間は の意味を失っているのではないかと考えたくなりま      無視されてしまう傾向が大となります。即ち、その す。                           思想やイデオロギーのために、私達は人類をも犠牲  即ち、政治、宗教、その他の指導者達は、いずれ      にしようとすることさえ致します。 もかつてもっていた真実の響きや本質を見失ったり、      こういうことが、今世界各地で起こっています。 それらから逃避したりしているのではないかと思え       このように、方式が重要になってしまった世界― るからであります。                    方式だけが重視される世界では、人間である「あな  もし仮にそうであるとすれば、それらの人達から      た」や「私」は意味を失ってしまいます。 発せられる言葉は、あたかも権威がありそうに見え       そして、宗教的なものでも社会的なものでも、あ る「単なる言葉」になっているにもかかわらず、我      るいは、政治的なものでも、その方式の監督者が権 々がそういう言葉を安易に引用してしまうため、私      威をもち、権力を握り、結局個人を犠牲にすること 達自身が混乱し、不安定な状態に陥ってしまうこと      になっているケースを数多く見ることが出来ます。 はありがちなことであります。                さて、この混乱と悲惨の原因は一体なんでありま  また、もし私達が聖書やマルクスあるいは仏典の      しょう。 中の本当の真実の響きのある言葉を引用しても、私       このような悲惨、心の内部と外部の両面の苦悩、 達自身が既に不安定で混乱していれば、その言葉す      戦争、飢餓、不況に対する不安と恐怖は、どのよう ら虚偽になってしまうし、また、あらゆる教示的な      にして生まれてきたのでしょうか。 書物が、例え美辞麗句や立派な文章であったとして       明かにこれは自己中心的な行動と観念の領域にお も、前述の通り、そこに書かれていることはあたか      けるものではないだろうかと考えます。 も指導者達の権威がありそうに見える「単なる言葉       自己中心的な行動に抵抗するために、これまであ 」であり、それらは彼らの宣伝・布教(プロパガン      りとあらゆる種類の説得や勧告がなされてきたこと ダ)のためのものであって、そのようなものは決し      を、私達は、よく知っています。 て真理ではあり得ないのではないかと考えます。        例えば、宗教は、誓約とか地獄の恐怖、あるいは  にもかかわらず、私達は、そのことに気づかない      様々な罪の宣告などという方法を用いて「私」とい のみならず、それを繰り返すことにより、いつの間      う中心から生まれてくる絶え間ない行動を制止しよ にか私達が自分自身の「今の状態」すら理解するこ      うとしてきました。 とを忘れてしまいがちであります。              これらのものがいずれも効を奏さなかったので、  それは即ち、私達が私達自身の混乱を、権威があ      政治的な組織が宗教に取って代わりました。 りそうに見える「単なる言葉」で覆い隠しているに       そして、そこでもまた、同じように説得が繰り返 過ぎません。                       され、究極的な理想社会への希望が説かれています。  私達は、とかく混乱したり、正確にあるがままの       全ての抵抗に対して、下は、極めて限定されたも ものを意識すると、すぐにそこから逃げだそうとし      のから、上は、強制収容緒所というような極端なも がちなことがよく有りますが、その姿勢こそが問題      のいたるまで、あらゆる形の法律が施行され、行使 なのではないでしょうか。                 されてきました。  しかし、これ以上にもっと重要なことは、経済的、      それにもかかわらず、私達は自己中心的な行動か 社会的、あるいは宗教的苦悩を解決する方式を提供      ら抜け出すことが出来ません。 している様々な教示的集団の存在であると考えます。                        (続く)

生活者主権の会生活者通信1999年04月号/04頁